性の締めつけが厳しいのは、決まって父権の強い社会

父権の強い父系社会では、父から息子へ財産や地位が継承されます。この時、確実に我が子に財産を伝えるには、妻が自分以外の男とセックスしていたら困るわけです。

一方、古代の日本は、母系と父系の両方の特徴をあわせもつ双系社会であったといわれていますが、平安文学や日記を見ても、男が女の実家に通い、新婚家庭の経済は妻方で担っていた「婿取り婚」が基本で、財産相続は男女を問わぬ諸子平等であり、とくに家土地は女子が相続する例が多数見られます。

さらに時代を遡ると、生まれた子の父が誰だか分からず、神たちを集めて、子どもに酒を捧げさせて父を決める神話もあります(『播磨国風土記』託賀の郡)。

母権の強い社会では、「どの母の子か」がポイントですから、父が誰であるかはそこまで重要ではなかったりします。結果、性の締めつけがゆるくなるという仕組みです。

日本の仏教が、一貫して、性に対してある種の「ゆるさ」を持っていることの背景には、性を重要視し、良きものとする日本人の土壌があったのではないでしょうか。

写真はイメージです
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独身、別居婚を推奨した僧侶

このようにゆるい日本の仏教界ですが、病気などで出家した人を除いても、出家後、ひとりみを貫いた人はもちろんたくさんいます。さまざまな男と性体験を重ね、妊娠出産を繰り返しながら、特定の人との結婚はせず、32歳になるころにはすでに出家していて、「ひとりみ」でした。

ひとりみ僧の凄い人たちとなると、弘法大師空海に伝教大師最澄、日蓮、道元、栄西……たくさんいすぎて、とても紹介しきれません。兼好法師もまた、ひとりみを貫いた僧侶であり、また、ひとりみであることを人に勧めてもいます。彼は著書の『徒然草』で、

〝妻(め)といふものこそ、男(をのこ)の持つまじきものなれ〞(第190段)

と書いており、「ひとりみ」主義者です。が、同じ段では、

〝よそながら、ときどき通ひ住まんこそ、年月へても絶えぬなからひともならめ〞

とあって、お互い自立した通い婚なら、男女の仲が長続きするとして、推奨してもいます。これは兼好法師の生きた南北朝時代、だんだんと同居婚が増加していたからかもしれません。

〝なに事も、古き世のみぞしたはしき〞(第22段)

と、昔を慕った彼のことですから、結婚も、男が女の家に通う、通い婚が基本だった平安時代(主要な妻に子が生まれると同居するケースも多いのですが)を理想とし、なつかしんでいた可能性もあります。いずれにしても全体的には、女とつき合うことがデフォルトであるかのような口ぶりです。
 
一方、同じ僧侶でも、妻帯を勧めた人もいます。