結婚が当たり前ではなかった時代

かつて結婚は、特権階級にだけゆるされたいとなみでした。

(歴史人口学者の)鬼頭宏によると、中世の隷属農民や傍系親族(戸主のオジ・兄弟など)の「多くは晩婚であり、あるいは生涯を独身で過ごす者が多かった」といい、「だれもが生涯に一度は結婚するのが当たり前という生涯独身率の低い『皆婚社会』が成立」するのは16・17世紀になってからのことでした(『人口から読む日本の歴史』)。

市場経済の拡大によって、晩婚あるいは生涯を独身で過ごす下人などの隷属農民が、この時期、自立ないしは消滅した。それによって社会全体の有配偶率が高まったわけです。

けれどそうした時代を迎えても、既婚率が100%でないのは当然で、信濃国湯舟沢村を例にとると、1675年の既婚率は男性全体で54%、女性全体で68%。約1世紀後の1771年には上昇するというデータがあるとはいえ、17世紀時点の未婚率は男46%、女32%という高いものでした(鬼頭氏前掲書)。

「皆婚社会」になったとされる17世紀ですらこの状態だったのです。

都市部に限ってみれば、婚姻率は幕末になっても相変わらず低く、江戸の男性の半数、京の男性の6割近くが独身でした。ましてそれ以前の古代・中世では、家族を持てる階級は限られており、下人と呼ばれる隷属的な使用人は、一生独身か、片親家庭がほとんどでした。

これは拙著『昔話はなぜ、お爺さんとお婆さんが主役なのか』でも紹介したのですが、大隅国禰寝(建部)氏が1276年、嫡子らに譲渡した下人95名(うち1人は解放)の内訳が記された資料を、磯貝富士男「下人の家族と女性」(『日本家族史論集4 家族と社会』所収)によって計算すると、下人には3世代同居は一例もなく、夫婦揃った者は9例27名(約28.7%)で、そのうち夫婦だけが3例6名、夫婦揃って子のいる者は6例21名で、全体の約22.3%に過ぎません。

写真はイメージです
写真はイメージです
すべての画像を見る

最多はひとりみ(単独)です。ひとりみは、女22名、男18名の計40名。

計算すると全体(94名)の約42.6%を占めています。子はいるけれど配偶者はいない母子家庭・父子家庭は12例27名(約28.7%)です。これが鎌倉中期の下層民の実態です。

室町時代から江戸時代初期、14世紀から17世紀にかけて作られた御伽草子と呼ばれる物語群には「一寸法師」や「浦島太郎」「ものくさ太郎」や「姥皮(うばかわ)」といった今の昔話の源流に位置するような話が詰まっているのですが、その話の多くが、「結婚してたくさんの子が生まれました、めでたしめでたし」で終わるのは、結婚して家庭を持つことが多くの庶民にとって憧れだったからなのです。