プーチンが絶対的な独裁者になるまで
まず、プーチンは前大統領のエリツィンに取り入って、1999年に後継者指名を受けました。ただ、プーチンは何の準備もなく、ただ棚ボタで大統領になったわけではありません。大統領後継指名の直後に、プーチン側から次の政権の方針についての文書が発表されていますが、その内容は強いロシアの復活に向けた実に詳細なものでした。政権奪取を見据えて充分に準備されていたことがうかがえます。
もっとも、プーチンはそれを単独で準備していたわけではありません。プーチンは旧ソ連時代にKGB(ソ連国家保安委員会)工作員でしたが、サンクトペテルブルク副市長時代に旧KGB人脈の仲間たちがいました。プーチンがその後、1996年にモスクワ政界に転じ、エリツィンに取り入って大統領府副長官、FSB(連邦保安庁)長官、首相と駆け上がっていくなかで、旧KGB人脈が彼を裏で支えました。つまり、ソ連崩壊後に不遇の時代を過ごしていた旧KGB人脈が復権していくなかでの、表の代表者がプーチンだったわけです。
プーチンはエリツィンの後継者として大統領になりましたが、就任後はエリツィン人脈を徐々に排除し、旧KGB人脈を取り立てていきます。旧KGB人脈を権力構造の中枢に集中させ、エリツィン時代に権勢をふるった新興財閥も排除していきました。新興財閥を排除し、治安機関強化で秩序回復を進めるプーチンに、エリツィン時代の無秩序ぶりを経験していた国民の多くが拍手しました。
プーチンは同時に、旧KGBが得意だった情報統制にも乗り出し、メディア支配を徹底。プーチンの実績を誇大宣伝し、国民の意識を誘導します。2003年からの国際的な石油高騰によってロシア経済は劇的に向上し、それもプーチンの人気を後押しします。こうしてプーチンは堅い支持基盤を手に入れました。他の有力者の人脈を追い落とすために当初は旧KGB人脈に支えられていたプーチンですが、徐々にプーチン個人の存在感が突出していき、絶対的な独裁者になっていきました。
2008年、大統領は連続2期まで(当時は1期4年間)という当時の憲法規定でプーチンは一時的に首相に転じますが、傀儡の大統領には旧KGB人脈の実力者ではなく、サンクトペテルブルク時代初期からの“子分”である軽量級のメドベージェフを充てました。2012年に大統領に復帰しますが、そのときはもう完全に独裁者でした。