法律と道徳
法律は「正しさ」を担保する、のではない。法律の許す範囲と正しさの範囲が寸分の狂いなく重なるなら、法改正という行為は存在し得ないからである。
もしも法律に間違いがないのなら、人間を奴隷として所有する行為は責められるようなものではなく、両手の親指の先、ふっくら盛り上がった桃色の肉と爪の間にゆっくり、深く、容赦なく裁縫針の先を押し込んでいく拷問も悪くない。違う。そうはならない、というのであれば、つまり我々の眼前にはしばしば「誤った法律」が現れていることになる。
しかし、法律における「誤り」とは何だろう。一瞬でもその点に思いを致せば、「法律と道徳は別物である」と単純に決めつけてしまうことは虚しい。両者の関係はまだらに重なっている程度だが、法律が道徳的な正しさ(を実現することへの欲求や信頼)を背景として一般国民に遵守されている実態を、真向うから否定する専門家は少ないのではないか。
司法は独立しているか
近代民主国家を支える骨格は三権分立と呼ばれるが、国民がその権力を付託する三者は必ずしも対等な権力を有しているわけではない。いわゆる三権のうち、行政権を付託された内閣と、立法権を付託された国会はともに高度な自律性を持つが、司法権を付託されているはずの裁判所には同等の自律性が備わっているとは言い難い面がある。
裁判所そのものはどの省庁にも属していないが、代表的な「司法機関」(法秩序の維持や実践に携わる実力組織)である警察は総務省、検察は法務省といずれも行政機関の傘下に置かれ、司法府の予算も行政府に握られているからだ。これはアメリカも同様で、連邦警察や連邦検察はいずれも司法省の管下にある。
こうした権力の偏在によって生じた司法の機能不全が、ついに行きつくところまで行ってしまったアメリカの状況を詳らかにした1冊が邦訳された。『なぜ、無実の人が罪を認め、犯罪者が罰を免れるのか』(中央公論新社)【1】。著者のジェド・S・レイコフは、ニューヨーク南部地区連邦地方裁判所の元判事である。