椎名誠と福田和也の共通点

ふたりとも嫌がるに違いないが、椎名誠と福田和也は似ている。〈ちょっと冗談じゃないぜ〉【1】と椎名は唸り、福田は巾着をぶんまわすかもしれない【2】。そういえば、福田は『作家の値うち』で椎名の作品【3】を酷評していたし、一方の椎名も〈小説家の世界では文芸評論家など殆ど誰も相手にしていない〉【4】とのたもうた。

2023年10月17日東京・千代田区で会見する椎名誠氏 写真/共同通信
2023年10月17日東京・千代田区で会見する椎名誠氏 写真/共同通信
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それでも、ふたりはよく似ている。

ほとんど中毒者のように酒を飲み、日々深く酔っぱらうところ。早くに結婚し、一姫二太郎の順で子供を授かったこと。デビューした時期が10年違う【5】が、いずれも雑誌の全盛期に書き手としてのキャリアを積み、あらゆる場所でコラムを書き、ゆうに百冊を超える著作を持っている。

まるでアル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也。相まみえないふたりの共通点は他にも…【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】_2

ふたりの殴り方

だが、なにより似ているのは、このふたりの書き手が、上っ面の正義(ポリティカル・コレクトネス)への挑戦者として拳を振り上げた後の、その殴り方だ。椎名と福田は社会を直接描写するのではなく、自分と社会の間に「仲間たちの小宇宙」を挟むことで、「多数決や法律が決める正しさ」と「自らの信ずる正しさ」を拮抗させようと試みてきた。

それは自伝的と称される『哀愁の町に霧が降るのだ』(椎名)を起点とするシリーズ、福田にとっては『罰あたりパラダイス』に特徴的に表れている。前者には、その後も半世紀以上にわたって椎名の作品世界を支える沢野ひとしや木村晋介といった面々、後者には壹岐真也や澤口知之【6】。

百冊以上の本を著しながら、ふたりは「ノンフィクション」という看板を使おうとしなかった。新聞やテレビといったマスコミ、出版業界が単に「商品の陳列・販売上の利便性」から捏造した看板を信じていないからだろう。

報道であれ、告白であれ、その看板に秘められている――ような顔をして――露骨に宣伝されているのは「書きたくないことも書いている」「すべてがさらけ出されている」というナルシスティックな恰好つけだ。

椎名が仲間たちと織り成す小宇宙

椎名も福田も、書きたくないことは書かない。だから椎名は〈スーパーエッセイ〉【7】だとはにかみ、福田にいたっては、登場人物や発言を実名で書きながら「これは妄想である」【8】と蛇足を加えてしまう。どうにも中途半端だけれど、意識的な分だけ正直な気もする。

実際のところ、ルポルタージュや参与観察といった看板を掲げている書き手の多くも、書きたくないことは都合よく伏せている。にもかかわらず、その取捨選択の政治的意図を隠して「さらけ出し」を偽装するのが常なのである。

2005年から始まった〈雑魚釣り隊〉は、本書『サヨナラどーだ!の雑魚釣り隊』(小学館)で大団円を迎えた。帯に〈「あやしい探検隊」結成から60年〉とある通り、このシリーズは、椎名が仲間たちと織り成す小宇宙を書き続けてきたことの証だ。

まるでアル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也。相まみえないふたりの共通点は他にも…【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】_3

吐いてもいないツバをまき散らす椎名

青年期から20代前半までを描いた『哀愁の町に霧が降るのだ』(1981年刊)を起点と考えたとき、椎名の人生年表の上で次にくるのは、会社員だったころを物語化した『新橋烏森口青春篇』と『銀座のカラス』だ。この新橋・銀座と同じ時期の、休日の行状から材を取ったのが、『わしらは怪しい探検隊』(80年刊)である。

まるでアル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也。相まみえないふたりの共通点は他にも…【〈ノンフィクション新刊〉よろず帳】_4

興味深いのは、誰もが何者でもなかった『わしらは~』や『哀愁の町~』では、実名で記されていた仲間たちが、椎名が売れっ子作家になってからの小説『新橋~』(87年)では仮名がほとんどになってしまう点だ。その理由を、『哀愁の町~』と『新橋~』の間に書かれた『岳物語』(85年刊)に見出すことは不自然ではないだろう。

椎名は〈隊長〉すなわち「集団を率いる父」の立場から、隊員たちの人格に虚実をないまぜにして、魅力的なキャラクター集団を作り上げた。吐いてもいないツバをまき散らすことになった陰気な子安、本当は澄んだ眼の高橋イサオ、まるで岳のような近所の腕白坊主フジケン。彼らが椎名の筆法を許したのは、物書きになる前からの友人連中だったからだ。