(前編)

「死にたい」衝動にかられる

小川さんは自分のことを「繊細で臆病」だと言うが、もう一つ付け加えるとしたら、とても真面目だ。

小川さんが『ひきこもり新聞』に書いた「当時者の声」が話題になり、あちこちの当事者会やひきこもりの居場所で取り上げられるようになると、「書いた本人として行かないわけにはいかない」と律儀に足を運んだ。ひきこもりの家族会から新たな原稿を頼まれると、頑張って書き上げた。

だが、そうして動けば動くほど、ある思いにとらわれるようになる。

「ひきこもって動けない状態のときは壁がただ見えているだけでしたが、動こうとすると自分のできないことが、より解像度高く迫って見えてきたんです。それでも動き続けたら、今度はその壁に当たって砕けちゃったという感じです。

単純に言うと、いろいろ動いて疲れちゃったんですね。最初につながった当事者とのいざこざもあったりして、そこからどういう風に動いていくべきなのかわからなくなった。

ひきこもりとして言いたいこともいろいろ書かせてもらったし、もうこれ以上は自分ができることはないなって、あきらめてしまって。それで、もう『自死するしかない』と思ったんです」

小川一平さんが当時つけていた日記。「生きたいと思えない」などの文字が…
小川一平さんが当時つけていた日記。「生きたいと思えない」などの文字が…
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実は、「自死するしかない」と思った1年ほど前に、小川さんは精神障害者保健福祉手帳2級を取得し、障害年金も受給し始めた。主治医の診断は抑うつ、適応障害、発達障害の一つであるASD(自閉スペクトラム症)だった。

抑うつだと心のエネルギーが極端に低下する。小川さんの場合、抑うつが悪化すると、ずっとダウナーな状態が続いて、ふさぎ込んでしまうのだという。

適応障害だと診断されたのは社会生活を営めない状態が続いているためだ。発達障害は先天的な脳の発達の偏りによるものだが、ASDの人はコミュニケーションが苦手という特徴がある。小川さんも保育園で「遊びの輪の中に入れず、人との接し方もわからなかった」と話しているので、幼いころからその兆候はあったと言える。

こうした疾患を抱えながら当事者活動を続けるのは、相当大変だったに違いない。一度「死にたい」と思ったら、自分では後戻りできなくなってしまった。