セクハラをスポーツに変えた

――今では考えられないような環境ですね。そんななかでも芸人を続けてこられた理由は?

私の中で名言で、森三中が残してくれた「まちゃさんはセクハラをスポーツに変えた人」っていうのがあるんですけど、私の場合、「こっちが何かされても気にしないし、逆にこっちからもやってやるぞ」という気持ちでいましたね。

当時、「私のおっぱいに顔はさんでから舞台に上がったらスベらない」という伝説があったくらいなんですよ(笑)。銀座7丁目劇場で、芸人4組ずつくらいに分かれてネタをして、お客さんから面白いほうに投票してもらい、勝ったら毎週舞台に立ち続けられるイベントがあったんですけど、私の入ったチームは負けないんです。同じチームの芸人が「ちょっと俺ウケたいんで、まちゃ姉お願いします!」って感じで、胸に顔を挟むとほんとに勝てたんですよ(笑)

それくらい、私はセクハラとか気にしてなかったし、他の女芸人に感謝(?)されていると思うと嬉しかったくらいですね。

――そんな「姉御」的な存在のまちゃまちゃさんですが、そもそも芸人を志したきっかけはなんだったのですか?

実家の母ちゃんが美容院を経営していたので、中学生のころから「将来はオシャレな美容師になって、東京で成功して地元に帰ろう」くらいに考えていました。でも、高校生のころにロックバンドの追っかけをしていて、メンバーの入待ちの時間とかが暇すぎるので、追っかけ仲間にネタを見せはじめたんです。

もちろん、当時からお笑いは大好きでしたけど、自分でネタを作ったことはないので、とにかくめちゃくちゃ(笑)。最初は「擬人化コント」みたいなことをしていて、牛乳やヨーグルトを口に含んで「チンコでーす」と言ってバーっと吐きだすみたいな(笑)。それでも、みんなが「まちゃ最高だ」と言って笑ってくれたので、学校の授業中にもネタを作るようになっていって、どんどんお笑いの世界に惹かれていきましたね。

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――NSC(吉本総合芸能学院)ではなく、オーディションを経て吉本興業に入られていますが、どのような経緯で?

当時、東京にNSCができたことを知らなくて、気づかぬうちにNSCの1期生がスタートしていたんですよ(笑)。そこで、吉本の劇場のオーディションでMCをしていた「ペナルティ」のワッキーさんに相談したら、「お前は学校に行かなくてもいいやつだから」とうれしいことを言われまして。

だからNSCの2期生にはならず、オーディションを受けました。その時も「これで落ちたらしゃーない」と思って臨んだんですけど、当時の銀座7丁目の支配人に「じゃあ今日からよろしく」と言われて、バイトみたいなノリで合格しましたね(笑)

――そこから2005年の「エンタの神様」の出演をきっかけに、29歳という若さでブレイクを果たしました。同世代の芸人に妬まれたりはしなかったのですか。

それはないです。周りの芸人も「まちゃ、すげえな!」と喜んでくれました。なかでも先輩たちのリアクションがうれしくて、「よかったな~」と言ってくれたり、「バイトしなくて芸人だけで食べていけるっていいよな」と背中を押してくれた先輩がいました。

それが、のちに闇営業問題でやらかすことになる「ロンドンブーツ1号2号」の「亮(田村亮)」さんなんですけど、今思うと「誰が言ってんだ、私の感動を返せ!」って感じですよね(笑)