Twitterがある今だからわかる松本人志、独特の文体

パラパラと読み始めてまず感じたのは、当時の松本人志の文章が、今のTwitterでの彼の文章と似ているということ。同じ人が書いているんだから当たり前じゃないかと思われる向きもあろうが。この時期のタレント本は口述筆記でゴーストライターがいることが多かった。

具体的にどの辺が似てるの?と聞かれると難しいのだが、たとえば語尾に照れ隠しっぽくつけてしまう一言の感じが、『遺書』と松本Twitterでは共通しているように思う。

松本は『遺書』の中でも「この連載は自身が書いている」ということを強調していたが、30年後のTwitterとの類似性でそれが裏付けられたことが面白い。

ちなみに『遺書』では、当時「週刊朝日」の連載仲間であったナンシー関が「まさか自分で書いているとは思わなかった」と松本の文才を認めるくだりがあるのだが、これには多分にリップサービスが含まれているように思う。

松本の文章は読みづらい悪文ということはないが、近年のピース又吉、Aマッソ加納、オードリー若林と言った面々のように「文才あふれる」という感じでもない。

松本人志発言のオリジンを辿る資料的価値

あとは後世にいろんなところで引用されている話が『遺書』が発端というのがわかって面白かった。主なものを挙げると「大阪の芸人は二度売れなくてはならない」「志村けんのストイックに笑いに向き合う姿勢を高く評価している」「横山やすしにチンピラの立ち話だと言われた話」などである。

もちろん『遺書』より前にテレビや雑誌などで初出ししているようなものもあるだろうが、これらの話が多くの人に知れ渡るきっかけとなったのは『遺書』だと思われる。

今では「大阪の芸人は二度売れなくてはならないってよく言いますけど」という感じで、すっかり当たり前のことのように定着しているが、それをはっきりと文章で指摘したオリジンはおそらく『遺書』なのだろう。

ちなみに『遺書』で松本人志が「男ットコ前」と高く評価した芸人は志村けんを含め4名。志村けん、島田紳助、浜田雅功ともう1名大竹まことを挙げている。他の3人に比べると松本人志と大竹まことの接点は大きくないように思うが、よくよく思い返すと大竹はM-1グランプリの審査員も務めていた。