廈門から遠く離れて
思いのほか寒い亜熱帯の冬をすぎて、三月の重たい雨季をこえたころ、海からの湿った風が春の訪れを告げる。春は瞬きのうちにどこかにいってしまい、気がつけば真夏のような五月の太陽に息が上がる。石鼓路のマンゴーの木は甘い香りを運んできて、たまに地面に落ちている果実を拾う。小ぶりの緑色のマンゴーは、とてもおいしい。
そんな芳醇な匂いに満たされた中国福建省の廈門という街に、軽いトランクひとつ持って降り立った。十年近い日本の大学での非正規生活に疲れはてて、なにも持ってくるものがなかった。それでも、学生たちに日本語を教える生活に慣れたころには、すっかり街に、そこに生きるひとたちの生活に夢中になっていた。
「ここに屋台をだして、あの鐘楼を見張っていたんですよ」
軽やかな足取りで、中山路の人込みをすり抜けながら、蘇さんは日本占領時代の暗殺事件の話をする。台湾に逃げ延びた暗殺者は銃弾を二発撃ったと証言したのに、傷が三つ残っていたのがいちばんのミステリーだという。直感的にもう一人の暗殺者は女性だったのではないかと思った。女性の足跡が歴史に残ることが少ないのはライフワークである女性史研究を通して知っていた。
廈門を離れて日本に戻り、一年ほどすぎた初夏の晩、寝返りを始めたばかりの子どもを寝かしつけたあと、急にイメージが浮かんできて、『楊花の歌』の冒頭のシーンを一息で書いた。女性史研究で出会ってきた無名の女性たちの面影はリリーという名前をもって、自らの生とセクシュアリティを語り始めた。植民地支配の現実を生きるもう一人の主人公、ヤンファの声には、いつかきいた在日の友人たちの言葉が響いてきた。毎晩のように、いまや遠くなった街やひとを愛おしく思いだす。それは書くことと自分自身の生きてきた経験が交差する瞬間だった。
日々の暮らしに疲れ、海を渡ったわたしのもとに亜熱帯の潮風が優しく吹いたように、この物語があなたの生活のなかに吹き込んでいけば、それほど幸せなことはない。
『楊花の歌』
青波 杏 著
単行本・2023年2月24日発売予定