王者はなぜチャレンジャーになれたのか
前田の決断に、異を唱える者は誰もいなかった。田臥が言う。
「実績があったプレーヤーがマネージャーになるって、すごい覚悟が必要だったと思うんです。そういうところにもみんな一目置いていたし、実際、自分らがプレーに専念できるように、練習からチームをまとめてくれたのが前田だったんで。『あいつと一緒に』って、優勝への想いを強くさせてくれましたよね」
田臥が評するように、前田はマネージャーになるとコートで強烈な威厳を作り出した。
「(加藤)三彦先生よりも、僕のことのほうが嫌だった奴、間違いなく多いと思います(笑)」
チームがなかなか安定しなかった時期も、前田は「タイトルを獲れなかったら後輩たちからどう思われるか?」と仲間を鼓舞する。加藤からも「まだ何も成し遂げていないよ」と、常にハッパをかけられていたこともあり、和を重んじる世代がより謙虚になる。
キャプテンの田臥が紡ぐ意志。それはすなわち、チームの総意でもあった。
「『王者』って感覚はそんなに持っていなかったというか。メンバーは一緒でも、その年の優勝は先輩たちがいたからできたことですし。そういうところで、自然とチーム全体でチャレンジャーになっていけました」
「今年も始まるな」3年連続3冠への道
少しずつ、チームが機能していく。
畑山がそうだったように、扇田も周囲の動きを察知し、的確なパスが供給できるようになった。攻撃の起点が安定すれば、若月と菊地の動きもスムーズとなり、お家芸である電光石火の速攻劇にも安定感が生まれてきた。
ようやく能代工らしさを形成できた頃、3度目の夏本番を迎えようとしていた。
田臥たちが自転車を走らせる。
能代港へ向かい、壁画が連なる堤防「はまなす画廊」に座ってぼんやりと海を眺める。
菊地がため息交じりに呟く。
「今年も始まるな……」
「そうだなぁ」
田臥が静かに相槌を打つ。
まもなく始まる“地獄”のOB戦。そしてインターハイ制覇へ向け、彼らはしばらく訪れることのない癒しに身を委ねていた。
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取材・文/田口元義