全国大会「無敗」ゆえの弱点
堀の文脈からもわかるように、田臥は後輩の力を信じた。菊地や若月もそうで、コートでは才能を爆発させるが、もともとは仲間との調和を重んじるような人間である。
チームの屋台骨である3人が穏やか過ぎるが故に、どうしても後輩たちに危機感が浸透しづらい。ましてや、勝ち続けているチームだけに、それが当たり前であるかのような空気がチームに芽生えかねなかった。
「そこが問題でもあったんですよね。スポーツって、負けて学べることが多いじゃないですか。能代はそれを許されないチームではあるんですけど、そういう経験をしていれば『人生、甘くない』って気づけるだろうし」
核心を突くように切り出したのは、当時マネージャーだった前田浩行である。振り返れば2年前の東北大会で敗れたことで、田臥と畑山のポジションに不具合があったと、監督と当人たちが気づけた。そのように、辛酸をなめさせられることが大事な時だってある。
前田自身、選手としてそのことを誰よりも痛感したからこそ、本質を見抜けたのだろう。
「実績は一番」マネージャー・前田浩行
画に描いたようなエリート。それが前田だ。
愛知県出身。小学時代に地元のミニバスケットボールチームで全国優勝し、中学でも洛西中のキャプテンとしてチームを日本一へと導き、自身も大会MVPに輝いた。
本当なら愛工大名電を全国的な強豪に押し上げた名コーチ、浅井保行のもとで研鑽を積みたいと望んでいたが、前田が高校生になる前年にその浅井が他界。「それなら強い学校に行きたい」と能代工への進学を決めた。
監督の加藤が「あの代では前田の実績が一番だった」と認めていたように、前評判は誰もが知っていた。ただ前田には、バスケットボールのスキルにおいて田臥の個人技や菊地の3ポイントシュート、若月のリバウンド力のような突出した武器がなかった。
「自分みたいな、なんでもこなせる選手じゃダメなんだなって。仮に足が遅くても、ディフェンスがダメでも、何かひとつ飛び抜けたものがある人間たちで形成されるチームが能代なんだなって、入って気づくわけです」
前田が主戦場としていたポイントガードには畑山と田臥がおり、付け入る隙は皆無だった。しかし、そのバスケットボールへの真摯な姿勢、人にも自分にも厳しくできる人間性はチームから買われた。
「お前は将来どうしたいの?」
2年生の頃だ。加藤にそう尋ねられた前田は、「指導者になりたいです」と答えた。すると、「だったら、今からマネージャーとして勉強してみない?」と打診を受けた。
迷いは、なかった。
「このままプレーヤーにこだわってもBチームのままだろうし、『その他大勢』で終わるのが耐えられなかったんです。自分の居場所ができたことで安心感もありましたしね」