思い出づくりのような感覚で出た大会で最優秀賞
チェッカーズは1980年のバンド結成以来、リーダーの武内亨とヴォーカルの藤井フミヤ(当時は藤井郁弥)が中心となって、地元の福岡県・久留米市で着実に人気を獲得。ヤマハが主催するアマチュアバンドのライト・ミュージック・コンテスト(以下LMC)の全国大会に出場すると、ジュニア部門で最優秀賞に輝いた。
実のところ、武内やフミヤが高校3年生になっていたため、「卒業して就職したらこれまでのような精力的な音楽活動ができなくなる」ということで、思い出づくりのような感覚でLMCにエントリーしたのだという。
ところが地区予選で優勝して、九州大会に進むとそこでも優勝、気が付けば1981年には全国大会でも優勝してプロになるチャンスをつかんでしまった。
それでもまだメンバーの鶴久政治や藤井尚之らが高校生だったために、83年の春に卒業後に全員で上京して、デビューを待つことになる。
泣くほど嫌だったデビュー曲だが…
1983年の初夏に行われたレコーディングでは、9月21日に発売されるデビュー曲だけでなく、翌年1月21日のセカンド・シングル、さらには5月21日のサード・シングルまでもが完成した。あとはどの曲を先にリリースするかの順番だった。
そんな中、『ギザギザハートの子守唄』がデビュー曲の候補にあがる。まずはインパクトのある曲で世間一般の注目を集めておき、親しみやすいオールディーズ調の『涙のリクエスト』をセカンドにして、大きなヒットを狙うという作戦だ。
しかし、映画『アメリカン・グラフィティ』の世界に刺激を受け、ロックンロールやR&Bといった洋楽のカヴァーを自分たちなりに日本語でやっていたチェッカーズにとって、『ギザギザハートの子守唄』はかなり抵抗を感じる楽曲であった。
日本における王道をいく伝統的な七五調の歌詞のせいだろうか、言葉のニュアンスがひと昔前の歌謡曲=演歌のように感じられたのだ。
しかし、デビュー前からプロデュースと作曲を任されていた芹澤廣明は、7人のメンバーたちにプロのバンドになるためのレッスンをしていく中で、不良と呼ばれていた少年たちの純情さ、仲間を思う気持ち、あるいは彼らが時折見せる反抗的な態度などから、チェッカーズにはぴったりの曲だと思うようになっていく。
芹澤は当時を思い起こしてこう語っていた。
「強烈に嫌がっていたよ。泣いてたもの。『嫌なら故郷に帰れ』って言ったら、一晩か二晩考えたんだろうね。マネージャーから連絡があって、やっぱりやりますと。そのときに『売れますか』って聞くもんだから、『売れるかは分からないけど、やらないと始まらない』と言ったんですよ」
とはいえ、芹澤はこの時、別のハードルについて危惧していたという。それは3番の歌詞に出てくる「仲間がバイクで死んだのさ」という部分が、所属事務所のヤマハ音楽振興会から問題視されることを心配していたからだった。
親会社にあたるヤマハはホンダと肩を並べるオートバイの世界的なメーカーだ。そして危惧していた通り、事務所からはストップがかかった。だが、芹澤はそこで自分の意志を曲げることなく、「もしも駄目ならばプロジェクトを降りる」とまで宣言して押し切った。