「つまらなさ」が嫌われる時代に

速水:人気の論点は教養の話とも絡められそうですね。ざっくり言えば、専門家の語る知識は人気がなくなっていき、その代わりにインフルエンサーの語る「教養」が人気になっている。

それに対して『ファスト教養』では「専門性」がある種の処方箋として挙げられていましたけど、僕はむしろ専門家が専門領域に閉じこもっていることも問題だと思っているんですよね。むしろ専門領域を横断できるコメンテーターがいなくなったからこそ、その穴をインフルエンサーが埋めてしまっている。

レジー:なるほど。ただ本来、専門家と視聴者をつなぐコメンテーター的存在は、専門的な知識をある程度理解した上で翻訳できなきゃいけないわけですよね。でも、今のインフルエンサーは専門的な知識ではなく、コミュニケーション能力と声の大きさによってその橋渡しをしてしまっている。この本ではそれを問題化したかったんです。

速水:それでいうと、たとえば本書で例に挙げられていた中田敦彦なんかは、色々理解に問題はありつつも、専門家と一般層の間を埋めるコミュニケーターの役割を担っている存在だと思うんですよ。

対して橋下徹は、専門家を「専門バカ」だと切り捨てて自分の意見を通そうとするタイプですよね。結果的に専門家と一般人を分断しているという点でより深刻に思える。橋下徹に比べると、中田敦彦は全然良識的なように感じるんです。

レジー:「専門家を叩きたい」という欲望だったり、教養という言葉に対する過剰反応みたいなものって本当に強いなと思いますね。たしかに橋下徹はそうした受け手側の心理をよく理解したうえで巧みに振る舞っているように見える。

速水:たぶんこの本で取り上げている中田敦彦や橋下徹のような人たちは、「権威」に対する人々の思いを敏感に察知している。僕はそれ自体は必ずしも間違っていないと思うんです。自分が子どもだった80年代を思い返すと、文化人や権威ある人たちがテレビでするような話って本当にくだらなかったんですよ。

それに対して、ビートたけしをはじめ芸人たちがカウンターパートとして活躍する流れがあって、自分としてもそちら側に共感してしまう。ただ、今は「権威を崩す側が次の権威になる」というサイクル自体がショー化して、全員悪者みたいな感じになってきている(笑)。

レジー:そうですね、かつての反教養は正統に対するオルタナティブだったと思うんですが、今はオルタナティブだけがある状態で、柱が不在になっている気はします。

速水:小池百合子が「自己責任」というワードを広めた、という指摘が本の中でありましたよね。ああいう自己責任論が当時出てきた理由って、「社会のせいで自分は就職できなかったんだ」っていう安易な社会責任論へのアンチだった側面もあると思うんですよ。

橋下徹もまさにエリート主義や左翼的な言説への世間の反感を逆手に取って支持を得ていったわけですけど、それに近いものがある。自分が2000年代のひろゆきやホリエモンのようなネット発のリバタリアンに多少共感してしまうのって、その自己責任論と社会責任論のどちらでもないように見えたからな気もするんですよね。主張はともかく、立ち位置はよくわかるなあと。

レジー:たしかに。自己責任論と社会責任論の中間というのは、今一番必要なところかもしれないですね。立場が極端で明快な方がポジションはとりやすいし、中間を作るっていかにも「つまんない」主張になっちゃいますけど。

速水:それだとインフルエンサーになれない(笑)。

レジー:そうなんですよ。でも僕は、「つまんない」ことをちゃんと言い続けないとだめなんじゃないかと思うんです。それをつまらないからと退けた結果、本来必要なはずの教養の基盤みたいなものが弱まってしまったんじゃないかと。

速水:「中間を取ろう」というのが一番支持されないなかでどう立ち回るか、という出発点にはとても共感します。ただ僕は「面白い」中間を探すことにしか興味が持てないんですよね。飽きっぽいし、すぐテーマも変えたくなるし。同じことをずっと主張し続ける人たちの重要性もわかる一方で、自分は絶対に無理だなという。

レジー:ライターとしては生き残りにも関わりますよね。中間を取るということは、特定のポジションから票を集めるのが難しくなるわけで。

速水:固定票を集めるのも嫌だけど、票取り合戦をやめて専門性に生きるのも性に合わないな、というところで今のスタイルにたどり着いている気はします。毎回取り掛かっているテーマが、食とか、テクノロジーとかショッピングモールとかありながら、時事性と向き合っていろいろ吸収していく。

「インフルエンサーが教養を語るようになった」背景とAKB総選挙‗03
速水健朗氏