いかに共通のコンテクストを取り戻すか
レジー:速水さんはその票取り的な部分にどう折り合いをつけているんですか? 話が通じるクラスタを見つけるということなのか、あるいは共通の言語を頑張って作っていくということなのか。
速水:うーん、やっぱり一旦失われているコンテクストを取り戻さないといけないなと思いますね。教養というより「一般教養」なのかもしれませんけど、「このぐらいはみんな知ってるでしょ」っていう共通理解が相当怪しくなっている気がするので。
レジー:たしかに、どこまでを共通の前提として書いていいのかという部分はライターとしてもよく悩みますね。
速水:たとえばちょっと前に『パリピ孔明』ってアニメが流行りましたけど、あれって「あるある」が詰まってるわけですよね。三国志好きが笑うような孔明のイジり方であり、クラブミュージックのハウトゥーであり。なので、そのコンテクストを面白がる感じの作品なのかなって思ってたんです。
でも人と『パリピ孔明』の話をすると「天下三分の計」を知らない人が見てたり、クラブ音楽の中でも、パリピ向け、ダサい音楽をいじっているところのニュアンスとかわからないまま楽しんでいる人が多い。それ抜きでも全然楽しめる作品なのか!とびっくりしたんですよね。
レジー:『ファスト教養』でも取り上げた『花束みたいな恋をした』も、散りばめられた固有名詞を全然知らない状態で普通に恋愛物として観ている人は多いみたいですしね。そうじゃないとあそこまでのヒットにはならなかったと思います。
速水:今だとハイコンテクストって、それだけで嫌われる傾向もあるじゃないですか。
レジー:ありますね。さきほどの権威が嫌われる話にも通ずるというか、知識があること自体に対する嫌悪感みたいなのがありそうな。以前、「オタクと推しの違い」について、「愛の深さを知識の量で測るのがオタク/愛の深さで知識の不足が免罪されるのが推し」というツイートをしました。
今は後者の共感的なものがとくに強くて、知識はそれに水を差すものとして敬遠されているのかなと。「勉強できるやつよりお笑いできるやつのほうが地頭いい」的な話かもしれません。
速水:それでいうと、朝日新聞に掲載された浅田彰のBTS批評の問題もありますよね。みんな彼の批評性そのものよりも、その膨大な知識を熱量に転換して受け止めている。まあ中身がすかすかな問題もありますけど。「よくわかんないけどこの人とにかくめっちゃBTS好きなんだな」とはうけとめられてます(笑)。あれが今の批評家の正解ってことですよね。
レジー:うーん、なるほど。たしかに「熱量」はひとつ重要なキーワードかもしれない。
速水:『トップガン』の続編問題もある。自分が中学生だった当時は『トップガン』って流行っていたけど、僕らは子どもだから見て夢中になった。大人の映画好きは無視してたり、または馬鹿にする文脈があった。でも時代が経つとその文脈はなく誰彼なく流行ったように思われている。36年経つってそういうことかと思いました。
レジー:今の『トップガン』の話で僕が思い出したのはORANGE RANGEですね。最初のブームの時はいわゆる「音楽ファン」の人たちはどちらかというと彼らをバカにするような態度をとっていたはずなのに、今年フジロックのYouTube配信でORANGE RANGEが出ていると当時彼らをバカにしてたはずの人たちまでSNSで盛り上がっている(笑)。
速水:でもそういう指摘って、ブームに水を差す「老害」とかマウンティングだと思われるリスクもあったりするから。
レジー:そのブームも数値化された「人気」に支えられていたりするので、指摘が封じ込められがちですよね。AKB総選挙ももともとは「そんなにメンバー選出に文句言うなら、おまえたちに決めさせてやるよ」っていうところから始まっているという話があったりしますが。
速水:「コンテクストはもう顧みられなくなっているから、好きに自分の歴史を語っていこう」みたいなことになって行きますよね。
物書きには「終わってしまったことを語るタイプ」と「これから起こることを書くタイプ」と2パターンあると思いますけど。本来は、掘り返す作業が、未来のヒントなんだと思います。
レジー:なるほど。それでいうとやっぱり僕は歴史や文脈を語ることを諦めちゃだめなんじゃないかとどこかで思ってるんですよね。
速水:テレビで見てると、しょっちゅう「平成の夏曲」の特集やってない? みたいなのはありますよね。すでに平成と昭和とのごちゃまぜになっていますけど。時代の文脈はもうどうでもいいって感じで。
レジー:それは本当にそうですね。2020年代って、後世からどんな風に振り返られるんだろうっていう。僕は2018年に音楽・映画ジャーナリストの宇野維正さんと『日本代表とMr.Children』と本を出して、今もミスチルを追いかけているのですが、きっとそれは「みんなが共有できるコンテクスト」へのロマンが自分の中に残っているからなんだと思います(笑)。
速水:みんなが知ってるはずの「一般教養」へのロマンってことだよね。
レジー:もちろん、現実的にはそれがあり得ないのもよくわかっています。なのでライターとして自分ができるのは、その対象のファン以外にも届くものを書こうってことぐらいですよね。本来の宛先である特定のクラスタだけじゃなくて、ほかの人が読んでも引っかかるようなフックや普遍性を仕込んでおこうという意識で書くようにはしています。
速水:僕も2014年に『フード左翼とフード右翼』を書いたときは似たような意識だったかもしれない。あれは「食」の本ではあるけど、食文化はどうでもよかった。自然志向食品を好むムーブメントを「左翼」、加工食品を好む人たちを「右翼」として、日本人の政治意識を食を使って語ってみた。わざと混濁させた感じが好きなんです。
レジー:そのずらし方みたいなところは共感できます。
速水:ビジネス書をたくさん読んでカルチャー領域で応用するみたいなのって、レジーさんのアプローチには、自分と似た部分を感じたりもします。
レジー:自分も第6章でビジネス書をいくつかポジティブに紹介していますが、それは素朴に「ビジネス書にもいいものはある」って伝えたかったというのがありますね。ビジネスはやはり自分のバックグラウンドのひとつでもあるので、ちゃんと紹介しておきたいなと。
速水:そこで「ちゃんと紹介」なのがレジーさんらしいなあ(笑)。
レジー:たしかに(笑)。さっきのミスチルの話じゃないですけど、自分はやっぱりどこかで「みんなが共有できるもの」を探っていきたいんです。
(取材・構成:松本友也)
関連書籍