『撮った写真』じゃなくて『撮れちゃった写真』

先日、私はこの「三沢の犬」についてある質問を受けた。

「なぜ、この写真は有名なのか」

というものだった。森山を紹介する展示が渋谷のデパートの中で行われたのだが、写真界を中心にさまざまな人に同じ質問をするという趣旨だった。写真評論家、森山と関わりのある方、写真家など立場や職業が違うさまざまな者だ。改めていろいろな見方、読み方ができることを意識させられ興味深かった。その答えが会場にパネルとなって展示された(「はじめての森山大道.2021年5月14日〜6月25日、渋谷PARCO、ほぼ日刊イトイ新聞主催)。

展示は一般の方に向けたもので、森山大道という写真家のことをまったく知らない、あるいは名前くらいは知っているが詳しくは知らないといった方たち、さらには詳しく知っている人が森山大道という写真家の軌跡を改めて理解、再確認できるようによく構成されたものだった。写真評論家の飯沢耕太郎はそこで、

「三沢の犬は森山さんの自画像。仮に、あの写真に森山さんの写真家としてのあり方が写っていたとしても、森山さんご自身、自分で撮ったあの写真を見て、自分で驚いちゃったんじゃないかな。その意味では、『撮れちゃった写真』っていうものが、すごく大事なんだと思うよ。『撮った写真』じゃなくて『撮れちゃった写真』」

と発言している。作家の大竹昭子は、

「何かに遭遇する瞬間を、これほど強く感じさせる写真はないのではないか。単に野良犬に出会ったというだけでなく、オオカミを先祖にもつ生き物が駆け抜けてきた長大な時間に直面させる。その閃光のような力に、見る者の眼は射抜かれてしまう」

と語る。私は次のように答えた。