小川洋子(左)、河合祥一郎(右)
小川洋子(左)、河合祥一郎(右)
すべての画像を見る

劇場という名の星座
著者:小川 洋子
定価:1,925円(10%税込)

劇場という名の星座
著者:小川 洋子
定価:1,925円(10%税込)

購入する
電子版を購入する
試し読み

帝国劇場に込められた精神を描く

河合 新作『劇場という名の星座』は小川さんが愛する帝国劇場を舞台に、観客や裏方のスタッフ、劇場に関わるさまざまな人たちへスポットライトを当てた短編集ですね。私自身、専門はシェイクスピアですが、日本の舞台芸術も大好きで帝劇へも足繁く通っていました。だから本作がどれほど細部にこだわったものかよくわかります。きっととても熱心にお調べになったり、関係者のお話を聞かれたりしたのだと思いますが、そのあたりのことをまずはお聞かせいただけますか?

小川 帝国劇場の元支配人の方から帝劇を舞台に小説をと依頼を受けたのですが、そのときおっしゃったのが、帝劇をつくった劇作家の菊田一夫の精神を描いてほしいということでした。当時のことを知っている人がどんどん少なくなっていくなかで、帝劇の建物とともに菊田さんが舞台に込めた情熱が失われてしまうのは悲しい。それを小説というかたちで残してくれませんか、と。正直、そう言われて少し不安でした。私は一度も菊田さんにお会いしたことがないものですから。
 なんとかイメージを掴もうと、菊田さんについての評伝を読んだり、親しくされていた役者の方に印象をお聞きしたりしました。そのうちにわかったのは、菊田さんが帝劇を建てるときに込めた熱量が、いろいろな人に受け継がれているということです。今も昔も裏方さん含め、たくさんの人間の力によって菊田さんが愛した帝劇は支えられているんですね。幕内係さん、楽屋係さん、売店で働く方、それぞれのプロの仕事を取材するうちに、舞台を愛するとはこういうことかと気がつき、これを書けばいいんだと思ったんです。

河合 劇場の内側だけでなく、劇場の外にもその愛は広がっていることを感じます。小川さんの優しいまなざしが一人ひとりの人物を見つめていて、心地よかったです。たとえば「一枚の未来を手にする」では、ひいきの俳優の卒業公演のチケットを持っている薬剤師が観劇に行く途中で、ある老女を救いますよね。何があっても観に行きたいステージを犠牲にして、人を助ける。自分にはこんなことできるだろうかと思いながら物語の行く末を見守っていました。

小川 観客はどんなお芝居になるかわからない状態でチケットを買うんですよね。言ってみれば、試着どころか、見もしないまま、洋服を購入するようなものです。東宝のある社員さんが「私たちは未来を売っているんです」とおっしゃっていて、なるほど、チケットを買うということは未来を買うことなのかと思いました。
 何が起きるのかわからないのが人生ですから、その未来が計画どおりにいかないのもたびたびです。しかし予定どおりにいかなかったことのほうが案外、記憶に深く刻まれるのだと思います。後年、保管していた半券の整理をしていて、もぎられていないチケットが一枚出てきたら、一人のおばあさんと出会ったときの思い出がふわっと蘇ったりするのでしょう。それも含めてチケットなんでしょうね。

河合 なるほど、タイトルの「一枚の未来を手にする」とはまさにそのことを意味しているわけですね。

小説に描き込まれた帝劇のリアル

河合 小川さんが森公美子さんとの対談で、「内緒の少年」に出てくる「ステンドグラスの裏に入るための扉」は実際にあるとお話しされていて、びっくりしました。きっとこの小説が織り上げるピクチャーのなかにも、まだ気づいていない帝劇のリアルが細かく描き込まれているのでしょう。同じく「内緒の少年」には上演中に舞台袖で詩を読んでいる役者が出てきますが、彼にも誰かモデルがいるのでしょうか?

小川 はい、市村正親さんからお話を伺ったときに、しばらく出番がないときは楽屋に戻らず、舞台袖で本を読んでいるんだとおっしゃっていたんです。一方では舞台の音を聞きながら、もう一方では本を読み、違う世界で心を休ませてから、また舞台へと出て行かれるようです。

河合 そうでしたか。やはり、この本には私たちの目には見えない劇場の現実が詰まっているわけですね。

小川 劇場はまるで迷宮のようです。今回、内側を見せてもらって、お客さんとして来場しているだけでは目に映らない、圧倒的に広くて、深い世界があるんだと知りました。取材中に支配人さんでさえ初めて開けるドアもあったくらいですから。
「ステンドグラスの裏に入るための扉」は二階にあります。おそらくあそこにあんなスペースがあるなんてことは誰も想像していないでしょう。そもそもあのステンドグラスは皇居のお堀という東京随一の風景をわざわざ隠しているわけで、それも不思議ですよね。きっと菊田一夫の精神によるものなんだと思います。一歩劇場に入ったら、日常ではない異世界に浸ってほしいと考えたのではないでしょうか。ああいう場所を見せてもらうと、作家の想像力をかき立てられますし、小説に書かざるをえませんね。