日本の羅針盤となった男
──確かに徳田さんは国内で、中村さんは海外で、誰にもまねの出来ないようなアクションを起こしていますね。
徳田さんの本を書く前に、私は『後藤新平 日本の羅針盤となった男』(草思社文庫)を出しています。1857年に岩手の水沢に生まれた後藤新平も、明治期に医師として歩みだし、多くの命を救うために検疫や、都市建設の分野に進み、政治家として関東大震災後の「帝都復興計画」をまとめ、東京の原型をつくりました。
後藤は医療の枠を超えて活躍した医師の先駆者です。後藤、徳田、中村の三人は、いずれも命と向き合うことを突きつめ、大事業を完遂した。彼らを書いた理由はそこにあります。
徳田さんは、醜聞まみれで、毀誉褒貶がありますが、いまや彼が立ち上げた徳洲会は、365日24時間救急を受け入れる病院を全国で90以上運営し、4万人以上の職員を抱えています。救急と、離島やへき地の医療は、徳洲会抜きでは成り立たない。医療インフラを構築し、地域経済を担っているんです。徒手空拳から、これほどの民間病院グループを築いた例は世界でも珍しい。
中村さんもハンセン病の診療から出発し、戦乱と旱魃で荒廃したアフガニスタンで井戸や用水路を建設し、90万人以上の命を救った。どちらも事業家なんですよ。
──中村さんがそもそも徳洲会に関わった直接的なきっかけは、パキスタンへ派遣される前に、医者として総合力をつけるためだったというのも、面白いですね。
年中無休、どんな救急患者でも受け入れる徳洲会は、貴重な出会い場でした。中村さんは九州大学医学部を卒業し、精神科、神経科を専攻しましたが、パキスタンの辺境でハンセン病を診るとなれば、内科や外科の技量も身につけなくてならなかった。医療資源が乏しい途上国では、どんな病気でも診ないといけませんからね。総合医としての力が問われるのですが、日本の大学病院などは臓器別の診療科に細分化され、総合医の訓練が積めない。
そんななか、福岡徳洲会病院は、どんな患者も受け入れていた。総合医の力をつけるならここしかない、と中村さんはアルバイト兼研修で福岡徳洲会病院に入ったわけです。そして、徳田さんとの関係が培われます。さらに福岡徳洲会病院には、後に中村さんの右腕となる看護師の藤田千代子さんも勤めていた。福岡徳洲会病院での出会いが、中村さんの人生を決定づけています。
──研修に行く時点で、中村さん自体は、徳田虎雄さんという存在を意識していたんでしょうか。
当時の徳田虎雄は医療界の風雲児、全国各地に病院を建てる際、既得権を守ろうとする地元の医師会と凄まじいバトルを展開していました。医師会が行政を巻き込んで徳洲会の進出を阻止しようとすると、公開の討論会を申し込んで対決したり……。そのようすをメディアが頻繁に取り上げ、徳田は医療の破壊者か、救世主かと注目されていました。中村さんが知らないわけがない。
一方で、中村さんは学生時代に学生運動にのめり込み、逮捕され、取り調べを受けて二十数日間、完全黙秘を貫いています。徳洲会には、学生時代に全共闘運動に没頭した医師たちも集まっており、シンパシーがあったのではないでしょうか。













