本質観取は言語教育の常識を変える!?
──本質観取は言語教育にピッタリ「はまる」とは、どういう意味でしょうか?
稲垣 本質観取は、対話を通して言葉の本質に迫っていく、いわば皆で言葉の意味を「つくり上げていく」共同作業のような営みです。
いま、日本語教育は変化しつつあります。従来は、教師が言葉の意味に関する正解を握っていて、辞書的な意味を伝え、それを学習者が書き取って覚えるという考え方が主流でした。いまだにそういった教え方を続けている現場も少なくありません。
しかし最近はヨーロッパのほうから複言語主義(注)などが入ってきて、人間を単に言葉を教わる機械のような存在ではなくて、社会的存在として見ていこう、というパラダイムシフトが起こっています。その中で、そもそも言葉の意味は上から与えられるものじゃなくて、みんなでつくり上げるものなんだという発想に立って、日本語を母語話者ではない人のものにするという流れが生まれつつあるんです。日本語母語話者を絶対的な規範とする言語教育を問い直そう、と。
注 複言語主義(plurilingualism):一人の人間が、(たとえ部分的であっても)複数の言語の能力を持ち、それらが相互補完的に作用していると捉える考え方。
──言語教育というと、新しい外国語を学ぶ時には先生から一方的に正しい言葉を教えてもらう、というイメージが強かったです。
稲垣 いま日本では外国人がこれだけ増えているので、どうやって彼らと共生していくのか、日本語教育もそのためのものであるべきではないか、という見方が求められています。
少し昔なら「郷に入っては郷に従え」という感じで、規範的な日本語教育が展開されていたと思います。母語話者(日本人)の私たちが話している「正しい日本語」をあなたたちも話しなさい、日本に馴染みなさい、という形で。
まだまだ多くの日本語教室は旧態依然としています。本当に管理主義的なんですよ。外国人の学習者たちは色々なところから来た「労働者」で「人材」なのだから、「ちゃんとした日本語」を喋って働いてくれないと国益にならない、と。そういうスタンスで日本語教育をしている人たちもいます。
でも、そうじゃないんだ、これまで通りではいけない、もっと学習者主体で下からボトムアップの形でやらなきゃダメなんだ、という空気も生まれつつあるんです。そうした中で、従来的な日本語教育を崩したところで何ができるか、と考えた時に、共生社会のためにまずは「対話」しよう、ということになる。そこで本質観取が「はまる」んです。
本質観取では、学習者たち自身がみんなで言葉について議論しながら、その意味を自分たちでつくり上げていきます。「自由とは何か」「公正とは何か」「幸せとはどういうことなのか」。そういったことを、自分の経験を基に語り合う。
これこそ、学習者を社会的な存在とみなして、学習者主体で行う言語教育のあり方ですよね。教師が一方的に教えるんじゃないんです。あくまでもファシリテーターに徹する。学習者たちと共に言葉を学んでいく。そういう言語学習のあり方を実現するうえで、本質観取が果たす役割は極めて大きいんです。
これって、世界平和への道なんじゃないでしょうか。色んな国から来た、色んなバックグラウンドの人が平和や正義を語っていくと、価値や分断を超えうる対話になります。だからこそ排外主義が吹き荒れるいまの日本社会において、日本語母語話者じゃない人たちとの間でこそ、本質観取をやるべきだと私は固く信じているんです。














