本質観取は学校教育を根本から変える!
稲垣 もうひとつ、本質観取のすごいところは、複言語に開いていくことができる点にあります。日本語だけに留まらない。日本語で本質観取をしているはずなのに、いつの間にか外国語の本質観取になっていることがあります。
──新書の中では、フランス人留学生と「自由とは何か」を論じた本質観取の実例が紹介されていました。対話を交わす中で、話題はフランス語のBonheur(ボヌール)との比較に及んでいきます。
稲垣 私と岩内さんが参加していましたが、途中からは私と岩内さんが完全に学ぶ側になってしまって。「フランス語ではどうなの?」と尋ねてばかりでした。逆転が起こるんです。
──日本語教育の中で本質観取を行うと、逆に日本人の側が外国語(たとえばフランス語)を学ぶ機会にもなり得るんですね。
稲垣 そうなんです。双方向性に開かれているというか。英語、フランス語、ベトナム語、何語でも良いんですが、日本語だけではない世界に開いていく、というのも非常に大事で。学習者それぞれが自分の言語で言い表したことを誰かが日本語に翻訳し、架橋して、それによって共同の意味構築が起こる。多数の言語に開いていける、というのが本質観取のすごいところです。
「教える/学ぶ」という一方的な関係性に閉じず、それがひっくり返る。私たちも一緒に学ぶことができる。本質観取をやっていると、私たちの立ち位置はどんどん変化していきます。それが面白いところなんです。だから、もう言語「教育」ですらないという感じもします。いうなれば「言語活動」ですよね。それも同じ位置に立っている、同じ立場、同じ目線の人同士のコミュニケーション。
苫野 その流れで言うと、学校現場でも本質観取をやる意味は本当に大きいんです。いまの学校では基本的に先生が正解を持っていて、子どもたちがそれを取りに行く、という構造になっていますよね。
「発問」という教育用語があります。ちょっと不思議な言葉です。一般に、誰かに何かを問う時って、わからないから尋ねるものですよね。でも「発問」は、先生が正しい答えを持っていて、それをあえて子どもたちに問うんです。ある意味、失礼な話ですよね。「お前、答えられるか~?」って、人を試して(笑)。
対して、本質観取では先生も答えを知らない問題に頭を悩ませて、子どもたちと一緒に答えを見つけていくことになります。普段とは違う知的冒険を前に、子どもたちはすごく夢中になってくれます。
意外なことに、私の経験では子どものほうが本質観取が上手なことが多いんです。大人よりも、ある意味気兼ねなく言葉をどんどんテーブルに置いていってくれる。また、本質観取では最初に各々の体験例を持ち寄るんですけど、子どもたちは純粋に体験例そのものを持ち寄ってくれるんです。それに対して、大人はすぐに概念化したがってしまうところがあるかもしれません。抽象化しようとする。
──確かに、つい頭でっかちに考えてしまう気がします。
苫野 手持ちの知識で何かを言いたくなることもあるので。それぞれの体験に基づき内的な確信を持ち寄るという、本質観取の醍醐味とは乖離しちゃう部分もあって。それに対して、子どもたちは本当に自分の体感覚で言葉を紡ぐので上手なんだなとよく感じ入ります。
本質観取をやっていると、先生は自分よりも上手に言葉を紡ぐ子どもたちに出会うわけですよ。大人が自分だけで考えていても全然わからないのに、子どもたちに逆に「教えてもらう」機会が得られる。それはやっぱり先生にとっても大きな学びだと思いますね。子どもたちと一緒に答えをつくっていく。これこそ、ある種の教育の真髄じゃないですか。
哲学では、古代ギリシャのソクラテスやプラトンの頃から、仲間や論敵たちとの対話を通して、わからないことを互いに問い合って答えを見つけていくという、教育のひとつの望ましい姿がありました。本質観取を通してそれを経験できるというのは、学校の先生にとっても重要ではないかと思います。
もちろん、「発問」の技術も教育のテクニックとしては非常に大切なんですが、ずっと発問にさらされ続けた子どもたちって、やっぱり先生の期待する答えにたどり着こうとするマインドが身に沁みついちゃうと思うんです。そうじゃなくて、本当に純粋に答えが分からないから問い合う。そして一緒に考え、答えを見つけていくという問い合い方、対話の仕方があるんだなと知るだけで、学びの世界はきわめて豊かに広がるだろうという感覚を私は持っています。














