「本質観取」の先駆者としての師・竹田青嗣

──皆さんは哲学者の竹田青嗣先生のゼミ生なんですよね。

岩内 はい。だからこそ今回の新書が成立したという側面もあります。普通は専門家が一冊の本を書く時には専門性を重視するため、たとえ同じ分野が専門であってもこだわるポイントや論の進め方は変わってきます。なので「分担執筆形式」は難しいんですが、我々は竹田青嗣先生のところで学んだ同志ですし、大義のためには細かいものは捨てるという精神も良い意味で持ち合わせているので(笑)。

苫野 この3人はそれぞれが専門とする現場で本質観取の腕を磨いて、実践を広げてきました。長い間、同志として共に哲学探究をしてきた仲間で、3人の知見が合体することが今回は重要だったかなと思うんですね。

──本質観取はいつ頃から行われているのですか?

苫野 私たちは竹田先生のもとにいた頃から始めているので、もう20年ぐらいですかね。最初は竹田青嗣という本質観取の名手による、スパルタだったんですよ。

──スパルタ!

苫野 例えば「恋の本質を……言ってみろ‼」みたいな。「とにかく言葉にしろ~!」と言われて(笑)。今回の本に書いたような手順とかコツとか、そんなものは何もない状態でした。徒手空拳で、やってみろ! なんですよ。でも、そこで“本質観取力”は鍛えられていくんですね。ああ、こうやれば良いんだ、と。

後に西研先生(注:哲学者。東京医科大学教授)が、一定の手順とかを編み出してくださって。それをベースにしながら、もっと広く、多くの方ができるように方法論を整理していきました。一般の方々とやるようになって、もう15年ぐらいでしょうか。延べ数千人とやってきたんじゃないかと思います。

岩内 たぶん哲学対話というものが流行り始めたのはこの10年ぐらいだと思うんですが、竹田先生なんかはたぶん1990年代からやっていたと思うんですよね。むしろ、日本の哲学対話のはしりは竹田先生だったんじゃないかな。彼のゼミは本当にギルド的な、職人の徒弟制みたいな感じでした。

そういう意味では、もう30年以上の歴史があると思いますし、積み上げてきたものは結構長い。私もこの3年ぐらいは年間100回ぐらい、週に2~3回は必ず哲学対話の機会を持っています。大学だけでなく、保育園や企業でもやっています。最近は学生から「哲学対話をやりたいです」という声もあがるようになりました。文化として根づき始めている気がしますね。

稲垣 私は竹田先生に出会った時期が遅くて、博士論文執筆途中の2016年からゼミに参加しました。そこで現象学や本質観取に出会ったのですが、日本語教育にそれを応用しようとしたのは私が初めてで、ちょっと異端者扱いという感じで(笑)。今回の本が出たことで、少しずつみんながわかり始めてくれたかな、という感じがします。

本質観取って、言語教育の文脈でもぴったり「はまる」んです。それぞれの学習者が自身の経験を語り合って、皆が納得できる合意(意味)に至ろうとするのが本質観取ですよね。それって、言語教育の場で起きていることそのものじゃないですか。