健忘症に加担する政府とメディア

内田 先ほどの、人々が西に逃げてきた話ですが、記者さんに、「それ記事にするんでしょう」と聞いたら、「とんでもない」と言うんです。でも、これとっても大事な情報じゃないですか。放射性物質の飛散による直接被害はないと政府が言い続けているにもかかわらず、若い子ども連れの女性たちが、民族大移動みたいに直感的に逃げているんですから。これは報道すべきだと言ったんですけれど、そんなことしたらみんなパニックになって西へ逃げちゃうからそれはできないと記者は言うんですね。

青木 まるで政府当局者のようなことをメディア記者が口にしていたわけですか。

内田 政府発表と新聞が口裏を合わせているんですよ。実際には記者も危険を感じていたはずです。震災直後に何万人か何十万人かの都民が逃げ出しているはずなんですけれども、メディアはその事実を隠蔽している。だから記録として残ってない。記憶の継承といっても、そもそも記憶から消されているんです。

メディア不信の始まりは3.11で東京電力を忖度したこと。なぜ、あのとき真実を報じられなかったのか? そして今なぜ”原発回帰”を止められないのか?_5

青木 僕はその片隅で長年禄を食んできた身でもありますから、なんでもかんでもメディアのせいとは言いたくありませんし、かろうじて踏ん張っているメディア人がいるのも知っていますが、やはりメディアの責任は大きいとも自省せざるをえません。

昨今一層高まっているメディア不信やメディア批判にしても、3・11が大きな転機になった面はあった。未曾有の危機を前にメディアは伝えるべきことを伝えているのかと、実際は伝えていないのではないかと、猛烈な不信や疑念が渦巻いた。

もちろん的外れだったり謀略論的なメディア批判も多くあって、そんなものは論外ですが、3・11以前は原発批判がタブー視される風潮があったのは間違いない。巨大スポンサーであり、陰に陽に便宜供与を施してくれる電力会社や関連団体の顔色を伺って。しかも事故からしばらくは原発関連報道も盛んでしたが、徐々にそれも下火になり、まさに長いスパンで事象を捉えていないからか、人間と同じように情報も砂粒のようにバラバラになってしまい、だから記憶や経験に学ぶことができないんでしょうか。

内田 メディアも含めて、日本中で砂粒化が進んでいますよね。

青木 その点も内田さんは以前から指摘されていますね。「資本主義は市民の原子化・砂粒化」を推し進めると。すなわち「他者と共生する能力の低い人間」は「必要なものを自分の金で買う以外に調達しようのない人間」であり、それこそ「理想的な消費者」だからなのだと。このあたりも、僕が描いた飯舘村の村人たちは、その真逆の共同体のなかで生活を営んでいて、今作にこめた大切なメッセージです。

それからもう一点、先ほど内田さんも指摘した「記憶の継承」に関して言えば、僕は晩年に親しくさせていただいた故・半藤一利さんの言葉も思い出します。「歴史に学ぶより、まずは歴史を学ぶんだ」という趣旨のことを半藤さんは言われたんです。歴史と向き合うにせよ、過去や死者と対話するにせよ、まずはやはりそれを学ばなければならない。

でなければ、まさに歴史的文脈のなかで事象を捉えることもできないし、教訓を引き出すこともできない。今作では原発の破滅的事故に加えて先の大戦についても言及しましたが、敗戦必至の状況に至りながら戦争継続にこだわったからこそ夥しい人々が犠牲になってしまったわけでしょう。

メディア不信の始まりは3.11で東京電力を忖度したこと。なぜ、あのとき真実を報じられなかったのか? そして今なぜ”原発回帰”を止められないのか?_6

内田 ミッドウェー海戦のあたりで敗戦必至の状況でしたからね。

青木 そう、少なくとも「絶対国防圏」と位置づけられていたサイパン島などを失陥した時点で降伏していれば、その後の沖縄での凄惨な地上戦も、広島や長崎の原爆投下もなかった。今作は、飯舘村で自死した102歳の古老に焦点距離を合わせつつ、そのあたりにまで歴史的な視線を延ばすことができたと思っています。だからこそ、15年程度で忘却してしまうのを座視するわけにはいかない。