序章 衝撃の朝
その日も大久保美江子はいつもと同じ朝を迎え、いつもと同じ家事を淡々とこなしていた。いや、内心ではとても淡々としていられるような心境でも状況でもなかったのだけれど、できるだけいつもどおりに振る舞わなければならないと、いまから振り返ってみれば、そんな意識の方が先に立っていたように思う。じいちゃんをはじめとする家族のみんなに、余計な心配や不安を与えてしまわないように─。
ゆるやかな稜線を描く山々に囲まれた長閑な田園の真ん中に、2階建ての大久保家はぽっかりと浮かぶように佇んでいる。その稜線を溶かすように朝の太陽がゆっくりとのぼり、陽光が田園に届きはじめる時刻、布団を抜け出して台所に立つのが美江子の変わらない日常だった。
もう4月に入って12日目になっていた村は、モノクロに冬枯れした山の樹々が少しずつ緑の色彩を取り戻し、太陽から届く光も徐々に力強さを増してきていた。とはいっても、平均標高が500メートル近い東北の準高地に位置する村は春の訪れが遅々としていて、特に夜明けから早朝にかけての気温はひと桁台という肌寒い日が例年は5月いっぱいまでつづく。
それでも室内に陽の光が射しこんでくると、布団から出るのが辛い寒さも多少は和らぐ。この日も意を決して起き出した美江子は、台所に立つとエプロンを身にまとい、まな板を取り出して包丁を握った。窓の外に眼をやると風はおだやかで、朝独特の白みがかった陽光が手元を照らしている。どうやら今日も天気はよさそうだ。
さあ、まずは午前7時ごろに出勤する息子のために朝食を整え、昼食用の弁当も持たせてやらなければならない。美江子は急いで支度に取りかかった。
当時は独り身で村の家に同居していた息子の佳則は、近隣の街にある勤務先まで車で毎日通っていた。いつもと変わらない時刻に起きてきた佳則は、そうやって美江子が準備した朝食を慌ただしくかきこみ、弁当をカバンに放りこんで車のエンジンをかけ、「じゃあ、行ってくるね」と言い残して無事に出かけていった。
玄関先で見送った美江子は、ほかのこまごまとした家事も片づけてひと息つき、居間に腰をおろして壁の時計に眼をやった。ふだんなら朝のNHKドラマでも眺めながら一服する時間があるのに、ほかの家事を片づけるのに少し手間取ったせいか、この日は時計の針がすでに午前8時を回ってしまっていた。













