支那満洲の如き占領地ではない勝手な行動をせざる如く指導せられ度
元首相近衛文麿の秘書の細川護貞(細川護熙元首相の父)が、沖縄を視察した高村坂彦(内務省防空総本部施設局資材課長)からの話として日記に次のように記している。
「(1944年12月16日)昨15日、高村氏を内務省に訪問、沖縄視察の話を聞く。……初めは軍に対し皆好意を懐き居りしも、空襲の時は1機飛立ちたるのみにて、他は皆民家の防空壕を占領し、為に島民は入るを得ず……。而して焼け残りたる家は軍で徴発し、島民と雑居し、物は勝手に使用し、婦女子は凌辱せらるゝ等、恰も占領地に在るが如き振舞ひにて、軍紀は全く乱れ居れり。指揮官は長某にて、張鼓峰の時の男なり。彼は県に対し、我々は作戦に従ひ戦をするも、島民は邪魔なるを以て、全部山岳地方に退去すべし、而して軍で面倒を見ること能はざるを以て、自活すべしと広言し居る由」(細川護貞『細川日記』336頁)。
沖縄戦当時は大本営船舶参謀として沖縄戦準備に関わり、戦後、引揚援護局事務官として沖縄戦についての報告書をまとめた馬淵新治は次のように総括している(陸上自衛隊幹部学校『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』20、24頁)。
「(軍隊使用の建物について)日本兵は住民の住宅に雑居するに至り、結局島民の生活に割り込む結果となって物資不足に悩む未亡人や、若い娘達の間に忌まはしい問題を惹起し、道義の頹廃が目立ってふえ、軍横暴の声となり島民の反感を買った例が散見される」
「丁度この頃心ない将兵が辻遊廓で日夜飲み騒ぐのを見せつけられた住民は、これから乗るかそるかの国土決戦を行うため、軍国調一色に塗りつぶされたこの郷土沖縄がまるで外地同様植民地であって、あたかも外国軍隊が駐留しているのではないかとの錯覚さえ感じさせたと述懐する者もある」。
第32軍内部の報告でも、「憲兵隊よりの通報によれば空襲後盗難事件頻発しあり軍人にして空家に立入り物品を持出す者ありと注意を要す」(「石兵団会報」74号、10月19日)、
「空襲後那覇宿営部隊は各々空家に宿営しあるも無断借用し或は釘付せる戸を引脱し使用しあり又家中の物品を勝手に持出し使用しある部隊あり民間においては『占領地に非ず無断立入りを禁ず』等の立札を掲げあり注意を要す」
「混雑に紛れ鶏、豚、等を無断捕獲し食用に供しある部隊あり民間より苦情ありたるを以て注意のこと」
「性的犯行の発生に鑑み各隊此種犯行は厳に取締られ度」
「某隊に於て家畜を調査し将来全部軍に於て徴発すべき旨を漏し為に民間に於ては小豚迄殺し食用に供しありと各隊は注意し地方人に不用意なる言動をなさざること」(同79号、10月26日)など兵士による非行について繰り返し警告されている。
その後も「無意味に畑に立入り農作物を荒すもの特に砂糖黍を無断にて取る者あり厳に注意のこと」
「竹及茅を勝手に切取り持ち行くものあり」
「農家より農具を借り返却せざるものあり」
「借用家屋の家賃を払はざる隊あり」
「農作物を荒す者多し地方側より苦情申出であるを以て注意のこと」というような注意が繰り返されている(同86号、11月23日、以上、県史23・163-168頁)。
さらに「軍会報伝達事項」として「本島は内地即ち皇土であり決して支那満洲の如き占領地ではない勝手な行動をせざる如く指導せられ度」という注意がなされているものもある(伊江島地区隊「駐屯地会報」11月26日、県史23・382頁)。
憲兵隊は民間人の手紙を無断で開封して内容を検閲していたが、「私の家を軍隊に貸したる所、戸板、不要の柱、等を薪に使用し錠をかけたる場所を開き物品を勝手に使用し、あちら、こちら勝手に壊したりした上移動に当りては家賃も支払はずに行きました」と書かれていた手紙を取り上げて、部隊に注意を促していた(「石兵団会報」101号、12月28日、県史23・171頁)。
その後も将兵による横暴非行はなくなることはなく、住民の軍に対する不満反発は溜まっていったと見られる。こうした状況が、沖縄戦のなかで軍を信用せずに軍とは別の行動を取った人々の背景にあったのではないかと思われる。