うずくまったまま死んだ少年
ガマ(*)であれ構築壕(*)であれ、埋没して見わけがつかなくなった入り口を見つけ、いざ、中に入るというときはとても緊張します。内部には、沖縄戦がまだそのまま残っているからです。
アメリカ軍は、ガマや構築壕の中に侵入してまで攻撃を加えるようなことはしませんでした。暗い壕内へ明かりをつけて不用意に入っていけば、奥に潜む日本兵に狙い打ちされてしまうからです。
アメリカ軍はまず壕内に黄燐手榴弾(おうりんしゅりゅうだん)を投げ込み、中にいる者を煙で追い出します。中からだれも出てこないときには、壕の入り口や上部を大量の爆薬で爆破して、生き埋めにしてしまいました。この戦法は「馬乗り攻撃」と呼ばれています。
浦添(うらそえ)市沢岻(たくし)の壕からは、薬液や聴診器などの医療機材が大量に見つかり、そこが野戦病院壕であったことがわかりました。さらに、傷病兵と思われる兵隊の遺骨が何体も落盤土の下から掘り出されました。遺骨の姿勢から、傷病兵たちは、奥へ向かってはって逃げようとしていたのではないかと思われました。
糸満(いとまん)市新垣(あらかき)では、出口のない袋小路になった直線状の小さな構築壕を発掘しました。入り口は完全に埋没していました。入り口を掘り起こしてみると、アメリカ軍の黄燐手榴弾の破片が出てきたことから、ガス弾の攻撃を受けたことがわかりました。入り口から壕内中央にかけて落盤した跡があり、その土の下から3体の日本兵の遺骨が発見されました。落盤していない壕の奥では、つきあたり付近から、ひざを抱えるようにうずくまった遺骨が発見されました。
遺骨とともに、ボタンが見つかりました。それは軍服のボタンではなく、県立中学の校章がついたボタンでした。遺骨は中学生だったのです。少年は鉄血勤皇隊の学徒兵だったのかもしれません。
うずくまった姿勢から、発見当初は、この少年は傷病者として奥に寝かされていたのだと推測しました。しかし、しばらくして、もしかすると日本兵が落盤で死んだ後も、少年は奥の空間にひとり残されて生存していたのではないかと気づきました。あかりもなく出口もない狭い地下の空間で、救助されるあてもなくたったひとりで残されるのは、想像を絶する恐怖と絶望であったに違いありません。
食糧は、水はあったのだろうか、腐乱臭(ふらんしゅう)に耐えて何日生きられたのだろうか。
ぼくは、胸が押しつぶされそうになりました。
*ガマ…沖縄本島南部に多く見られる自然の洞窟。おもに石灰岩で形成された鍾乳洞(しょうにゅうどう)。なかには人が1000人以上も入れる大きなガマもあった。
*構築壕…日本軍が避難場所や武器庫、陣地などに使用するために、人工的に穴を掘って造成した壕。自然にできたガマと区別する。