日本軍将兵の横暴・非行
沖縄戦では日本軍が犯した罪も多い。
第62師団(石兵団)が沖縄にやってきてからまもなくの1944年9月7日の「石兵団会報」49号に「姦奪は軍人の威信を失墜し民心離反若くは反軍思想誘発の有力なる素因となる」と注意を促しているが、同時に「軍会報中必要事項」、つまり第32軍からの通達として「本島に於ても強姦罪多くなりあり」と警告されている。
「石兵団会報」58号(9月21日付)では、「参謀長注意事項」として「民家に立入る者未だ多数あり(中略)性的犯行防止上厳守のこと」「強姦に対しては極刑に処す関係直属上官に到る迄処分する軍司令官の決心なり」と警告している(県史23・157-161頁)。
しかしながら1944年6月15日より45年2月26日までに第32軍の軍法会議で判決が宣告された48名を見ると、逃亡18名、従軍免脱2名、上官への暴行、侮辱や抗命など上官への反抗5名などがあるが、強かんなど性犯罪で裁かれたケースは見当たらない(林博史「資料紹介第32軍(沖縄)臨時軍法会議に関する資料」)。
警告は警告だけにとどまり、実際には厳罰には処せられなかったことがうかがわれる。
日本軍は軍慰安所を各地に設置したが、それにとどまらず歩兵第89連隊(連隊長金山均大佐)が移動してきた東風平村では連隊副官から「区長さん、連隊長の女を考えてくれ」と要求されるようなケースもあった(東風平区長宮城栄徳さん、東風平・361-363頁)。
宮古島では、高等女学校に通っていた久貝吉子さんに対して、部隊長が愛人にしたいと両親に申し入れてきたが両親は断った。しかし彼女の友人のなかで将校の愛人になったものも少なくないという(川名紀美『女も戦争を担った』213頁)。
こうした軍幹部が現地に愛人をつくる(村などの幹部にその女性を出させる)のは中国などでやっていたことであるが、沖縄に来ても同じ発想でいた将校も少なくなかったことを思わせる。