軍と県の対立

1943年7月から沖縄県知事だった泉守紀は第32軍とはことごとく対立した。

軍慰安所設置に協力を求めてきた第32軍に対して「ここは満州や南方ではない。……皇土の中に、そのような施設をつくることはできない」と拒否し、自らの日記のなかでは「兵隊という奴、実に驚くほど軍規を乱し、風紀を紊す。皇軍としての誇りはどこにあるのか」と辛辣な非難を書き留めていた(野里洋『汚名』90-94頁)。

44年12月に軍が県に対して中南部の住民を北部に疎開させるようにとの要請をおこなったのに対して、「食糧の自給自足不可能な県にとって、軍の要求は不可能に近い」「武器を持たぬ民間人を軍人とともに玉砕させることは不合理というものだ」と泉知事は反発していた(同一40-143頁)。

「家畜を無断で食べる」「強盗」そして「強かん」…戦時中に一部の日本軍兵士たちが現地住民に犯した罪と罰〈沖縄戦から80年〉_3
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食糧を自給できないにもかかわらず軍に多くを供出させられ、平野のある中南部でイモを植えて増産しようとしている時に、耕地のない北部に多くの住民を疎開させても飢えて多くの犠牲を出してしまうのではないかという危惧であり、合理的な考えだった。

泉は内務省から派遣されてきた内務官僚であり、特に特高警察などの役職を歴任し人々の自由を抑圧してきた官僚だったが、軍との関係は良くなかった。

そのため内務省は軍の要求に応え軍と協調する知事が必要と判断し、45年1月泉知事に代わって島田叡を任命、島田は1月末に沖縄に着任した。

そこから軍と県が一体となった、戦時体制をさらに進めた戦場態勢づくりが急速に進むことになる(川満彰・林博史『沖縄県知事島田叡と沖縄戦』参照)。

写真/shutterstock

沖縄戦 なぜ20万人が犠牲になったのか
林 博史
沖縄戦
2025年4月17日発売
1,243円(税込)
新書判/352ページ
ISBN: 978-4-08-721360-7

県民の4人に1人が犠牲になった沖縄戦から80年。
膨大な史料と最新の知見で編み上げた沖縄戦史の決定版!

1945年3月末から約3か月間にわたり、米軍と激しい地上戦が繰り広げられた沖縄戦。
軍民あわせ約20万人もの命が失われた。戦後、日本は平和憲法を制定したが、沖縄は米軍の軍事支配に委ねられ、日本に返還後、今なお多くの米軍基地が存在している。
また、近隣国を仮想敵とし、全国で自衛隊基地の強靭化や南西諸島へのミサイル配備といった、戦争準備が進行中である。
狭い国土の日本が戦場になるとどうなるのか? 80年前の悲劇から学び、その教訓を未来に生かすために、国土防衛戦の実相を第一人者が膨大な史料と最新の知見を駆使し編み上げた、沖縄戦史の決定版。

◆目次◆
 序  なぜ今、沖縄戦か
第1章 沖縄戦への道
第2章 戦争・戦場に動員されていく人々
第3章 沖縄戦の展開と地域・島々の特徴
第4章 戦場のなかの人々
第5章 沖縄戦の帰結とその後も続く軍事支配

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