最初に潰されたのは日本の繊維産業

トランプの米大統領復帰により、今後のアメリカの対日要求はさらに苛烈なものとなることが予想されるが、かといって過去の対日要求が「苛烈」でなかったわけではない。

日本は1951年にアメリカから「独立」したとは言っても、1957年になると早くも日米繊維交渉という形で、復興する日本産業への輸出制限という不当な要求が始まり、結局のところ、それによる産業界の損失を膨大な税金によって補償するというようなことが強要されている。

たとえば、1969年に米側が日本に求めた「自主規制」なるものも、当時の愛知揆一外相の要求拒否にアメリカが対抗し、そうしなければアメリカ議会で輸入割当てを実施するとの脅しを伴ったものであった。

また、翌1970年には宮澤喜一通産相とワシントンで会談したスタンズ商務長官が「沖縄返還の際に密約したはずだ」として迫ったことから事実上の決裂に至っている。

しかし、さらに翌年1971年にアメリカ側に「自主規制」の具体的骨子まで指示された上でやむなく業界の自主規制案が提示されている。といっても、この内容にも不満なニクソン大統領は「ジャップの裏切り」と口走ったと言われ、やはり次の第三次佐藤内閣で時の通産大臣田中角栄は苦渋の選択を強いられることになるのである。

ニクソン大統領
ニクソン大統領
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田中角栄は確かに立派な男で、このために訪米した1971年9月の交渉においてGATT(関税と貿易に関する一般協定)が規制の対象とするのは当該国が「被害」を受けている場合に限ると主張して(実際、この「被害」は相当に小さかったことが後に証明されている)アメリカの要求をつっぱねるだけのことをしている。

だが、帰国直後にはアメリカからの再度の圧力の下、通産省の幹部や佐藤首相、水田三喜男蔵相とのやりとりで対米譲歩による繊維産業界の損失を税収に依存した国家財政で補填するという選択を強いられている。

といっても、この損失補填も後の臨時国会での補正予算ではじめて必要金額の工面が完了するなど、相当にぎりぎりのものではあったが、そうまでしなければアメリカが納得しなかったということになる。アメリカが日本を属国扱いしていたことがわかる。