※1944年の3月、沖縄及び南西諸島の防衛のために日本軍第32軍が組織された。
本土防衛の捨て石としての沖縄
第32軍は、沖縄本島に陸軍3個師団を配備し、米軍の上陸に対して水際で決戦を挑む考えで作戦計画をつくっていたが、44年11月台湾の防備強化のために第9師団を台湾に引き抜かれることになり、45年1月までに同師団は台湾に移った。
第32軍の要請を受けて大本営は1個師団の増派を検討したが、本土防衛準備を優先させたために1月下旬、大本営は増援を送らないと通告した。
その背景を見ると、1945年1月20日、大本営が天皇に上奏して決定した「帝国陸海軍作戦計画大綱」がある。
ここで作戦の目的は「皇土特に帝国本土の確保」とし、沖縄本島以南の南西諸島などは「皇土防衛の為縦深作戦遂行上の前縁」とされ、そこに敵が上陸してきた時は「極力敵の出血消耗を図り且敵航空基盤造成を妨害する」こととされた。
つまり、沖縄は皇土=本土とは見なされず、本土防衛のための「前縁」とされ、本土防衛のために敵の損害を増やし時間稼ぎをすること、すなわち沖縄は本土防衛のための捨て石とされたのである。
太平洋戦線において米軍の進攻によって日本軍が次々と敗退を余儀なくされていくなかで、天皇は「決戦」をおこなって米軍を叩くことを軍に要求するようになった。
しかしサイパン、フィリピンでも天皇の期待はかなわないなか、2月に天皇が元首相ら重臣7人を個別に呼び戦局について所信を聴取した際に、元首相の近衛文麿は上奏文を提出し、敗戦は「最早必至」だとして「国体」すなわち天皇制を守るために「速かに戦争終結の方途を講ずるべき」だと提言した。
しかし天皇は「もう一度戦果を挙げてから」と言って戦争継続の意思を示して近衛の上奏を斥けた。
天皇は、米軍に一撃を与えることによって国体護持=天皇制維持が保証されることを期待していたのである(山田朗『大元帥 昭和天皇』370-383頁、『昭和天皇の軍事思想と戦略』312-322頁)。