国民の多数が貧しく、政治的に無力な状態
ブルジョワジーは連帯し、プロレタリアは孤立している。昔からそれは変わらない。だから、マルクスは「万国のプロレタリア、連帯せよ」と『共産党宣言』の最後で獅子吼したのである。
ブルジョワジーは国境を越えて連帯しているのに、プロレタリアは国境線で分断されている。マルクスはそのことを指摘したのである。
今の日本のように国民の多数が貧しく、政治的に無力な状態に置かれていれば、統治コストは安く上がる。
支配層が公共財を私物化しても、公権力を私事に利用しても、異議を申し立てる人がいない。エスタブリッシュメントにしてみたら、まことに暮らしやすい社会である。問題は、そんな社会からはもう「新しいもの」は何も生まれてこないということである。
支配層が公共財をひたすら私財に付け替えているうちに、その集団の公共財はどんどん乏しくなってゆく。
ある集団の貧富を決定するのは、その集団の最も豊かな者の私財の額ではない。集団全員がアクセスできる公共財(コモン)の多寡である。
1%の富裕層が天文学的な個人資産を持ち、残りの99%が貧困である社会を「豊かな社会」とは呼ばない。集団の貧富を決定するのは、その集団の資産総額ではない。その資産のうちどれほどが公共に供託されているかである。