「母を殺したのは私です」

「あのときに戻って、母を殺害しない方法を考えたかった」

東京の下町、葛飾の閑静な住宅地にあった赤茶色の一軒家。少しくたびれたその家の中で、苦悩の末、前原被告は母親を殺害した。

2024年12月12日に行われた第3回公判で、被告は後悔の念を口にする。

さかのぼること12月3日、東京地裁での初公判。前原被告は罪状認否で、

「母を殺したのは私です。ですが、母から頼まれてしたことです」

と述べ、弁護側も同意殺人の罪が成立すると主張していた。一方で、検察側は前原被告は借金があることから、経済的に困窮して犯行に及んだと指摘した。

検察側の冒頭陳述などによると、事件の経緯はこうだ。

前原被告は、中学卒業後、調理師の専門学校に進学。26歳の頃には料理の技術を極めるべく、修行のため2年間フランスへ渡った。帰国後は、フランス料理店で勤務したという。

事態が一変したのは、09年。母親の身体に「直腸がん」が見つかったころだ。手術後は人工肛門になるため、そんな母には介護の手が必要となった。

そして14年には、同居していた父が他界。さらに追い打ちをかけるように、19年に母親が「脳梗塞」で倒れ、左足が麻痺。自ら行動することすらできなくなり、24時間の介護が必要となる。

母親は「要介護5」の認定を受け、訪問看護や訪問診療のサービスに頼ってはいたものの、痰の吸引やインスリン注射などの介護は、同居していた前原被告がせざるをえなかった。

このころから、フルタイムで働くことはおろか、アルバイトすらもできないほどにつきっきりとなってしまった前原被告。

しかし、前原被告は、弁護側の被告人質問で、金銭的な支援は得られた可能性があったと語る。

前原被告には11歳年上の兄がいた。兄は、財務省に勤める国家公務員。

当初、前原被告は兄へ相談していたというが、「そういうことは、(母方の)叔父に相談したほうがいい」と言われたという。

唯一の肉親である兄に連絡を取ろうとしても留守番電話になり、メッセージを残しても折り返しはなく、事件直前には電話すらも繋がらなかったと話している。

前原被告は母の介護という責任をひとりで抱え込んでしまった。