江川に「おい、卓」、中畑に「おい、清」

長嶋は今後、どういう手続きが必要なのか、探り始めた。労働法については門外漢であったが、情報を集めて検討に入ると、答えは早くに出た。

「調べれば調べるほどにプロ野球選手は労働者になれるとの考えに至った。それだけ厳しい労働条件だったんですよ」

調査をしていくうちに自然と義憤にも駆られていた。

「私がここで一肌脱ごうと思ったのは、要するに選手が背広組にバカにされていたんですよ。当時、球団の人が選手を何と呼んでいたか、分かりますか? 江川のことを『おい、卓』、中畑のことを、『おい、清』ですよ」

江川卓(写真/産経新聞社)
江川卓(写真/産経新聞社)
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プレイヤーズファーストの精神からかけ離れたリスペクトの欠如。それが弁護士の心に火をつけた。

「それで一週間後に中畑と遠藤には、これから具体的に都労委に向けて動くけども、リーグやコミッショナーにはこのまま秘密裏で進めようと、念を押し合った。とにかく、事前に情報が洩れて潰されてはいけない、その一念だった」

長嶋は都労委と水面下で文書のやりとりを始めた。2回、3回と意見書を出すうちに都労委もまた理解を示した。返す刀で、自分が顧問をしている企業各社にも報告を入れた。

クライアントは名前を訊けば誰もが知っているナショナル企業ばかりである。労使の対立があれば、経営者側に就いていた弁護士が組合設立に尽力しているということが露見すれば、嫌な顔をされるかもしれない。しかし、それは杞憂だった。

意を決して「こういう事情でプロ野球の労組のために尽力しています」と話すと、どの会社もむしろおもしろがってくれた。「反対されるんじゃないかと予想していたんだけれど、その逆でした。いいじゃないか。やってみたらと」

ほとんどすべての会社が励ましの言葉を送ってくれた。「プロ野球は公的財産」という意識が企業役員たちの根底にあった。安堵しつつ、あらためて身が引き締まる思いだった。

資料をまとめ、都労委からの強い感触を得た長嶋は、選手会の総会に出席することを決意する。当事者となる12球団の全選手たちの前で直接、組合の説明をする機会を持つことは重要だった。会場のホテルに出向くと報道陣が群れを成していた。選手会としてはまだマスコミにも一切、洩らしてはならない議案であったが、弁護士の登場に気づいた記者が何人かいた。

「何で、先生が?」と聞かれて長嶋は焦ったが、ちょうどこの時期に在版の人気球団の某選手の女性問題が週刊誌を賑わしていた。「ああ、あの件ですか!アレですか!」記者はプライバシー保護の件だと勝手に早とちりしてくれた。

長嶋は法曹界の中でも自分がプロ野球労組のために動いていたことは、徹底して秘密にしていた。