「ナカハタさんじゃなくて、アカハタさんだね」

「それで野球界は大騒ぎになったんです。ただ、登記は終わっていたんで、文句を言われる筋合いはないと中畑と突っ走ることができました。機構や球団は、登記が無効だと騒ぐことも考えたようですが、都労委も認めているということであきらめたわけです」

プロスポーツ界における革新的な幕開けについて当時のメディアの扱いについて聞くと、小さく首を振った。

「あの頃にこの動きをしっかりと捉えたと思える記事を出したのは、東京新聞くらいだったね。あそこは一面で出したしね。あとの媒体は茶化したり、本質をずらしたり、それほどではなかった」

長嶋が電車に乗っていると、隣に座った学生が写真週刊誌『FRIDAY』を読んでいた。見開きで自分の顔が載っているのを見て「それ、俺だよ」と思わず声をかけそうになった。

当時の社会的な現象として、春闘を定着させた労働運動家の太田薫が総評(日本労働組合総評議会)の組合員を後楽園球場へ引き連れてきて中畑を応援した。これには「ナカハタさんじゃなくて、アカハタさんだね」と揶揄する評論家もいた。

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また、選手会労組の初期稼働も決して順風満帆ではなかった。ヤクルトが1986年の開幕直前に脱退を宣言している。

「あれもね。親会社からの露骨な圧力だった。もうそれはわかっていたけど、中畑は黙って耐えていた。今でも覚えているけど、ヤクルトの選手が脱退の声明文を読み上げるときに『選手とチームは“おもてうら”一体です』と言ったんだ(笑)。要は表裏(ひょうり)一体と読めなかったわけだけど、自分たちの言葉ではなく言わされていたから、そんなことが起こったわけだ」

当時、ヤクルトの尾花高夫が中畑に「3か月待ってください、すぐに復帰しますので」と言ったという話を向けると、長嶋は驚いた顔でこう言った。

「それは知らなかったな。ただ私が感銘を受けたのは、このときは広沢克己がすごく頑張ってくれた。ヤクルトにおける動きは広沢が組合の意義を十分に理解して奔走したことが大きいんですよ」

後にヤクルトから巨人、阪神を渡り歩いた主砲・広沢は何を思って動いたのか。


文/木村元彦