勝った連中にも最後まで奪えないもの

解釈は難しいが、目の前に材料はある。折々に発せられた言葉だ。それらの言葉から自己認識を仮構すると、井上尚弥はメリトクラシーを疑わない素朴な若者【13】という位置づけになるだろう。そこには父であり、トレーナーでもある井上真吾の強い影響が窺える。

真吾は、井上尚弥の「天才性」を否定し、〈誰よりも努力しているのをずっと近くで見てきた〉【1】と語る。その弁に則るなら、井上に敗れた者は「努力が足りなかった者」ということになってしまう。世界におけるひとりひとりの位置づけ、その勝敗や格差、優劣を分ける何がしかを、強引に〈努力〉という型枠に押し込めるなら、それが可能だと疑わないのであれば、勝った者はすべてを手にする資格を得る。財産だけでなく、あらゆる「正しさ」までをだ。

そういえば、フィリピンの闘鶏ではどちらかが死ぬまで試合が終わらない。専門の職人によって脚にナイフを括りつけられた2羽は、まるでボクサーのようにふたつのコーナーから現れる。ボクシングなら赤青の、そのコーナーはメロン、ワラと呼ばれる。メロンは、持つ。ワラは素寒貧。ある、なし。

勝者と敗者 写真/藤野眞功
勝者と敗者 写真/藤野眞功
すべての画像を見る

僕らの九分九厘は負け犬だ。生まれた場所で負け、家庭環境で負け、身長で負け、テスト勉強で負け、駆けっこで負け、喧嘩でも負け、ツラで負け、金で負け、センスで負けた上に根性でも負け、稼ぎで負け、出世で負け、酒で負け、優しさで負け、はたまたいやらしさでも負け、正義感でもずる賢さでも、年上にも年下にも、男にも女にも、自分自身にも負ける。

そんな僕らには、何かひとつでも残されているだろうか【14】。勝った連中にも最後まで奪えないもの、始めから彼らの興味を惹かないもの。負け犬の懐にもせめて「物語」だけは残るかもしれない。

文/藤野眞功

#1 まるでアル中のように酒を求め、日々深く酔っぱらう椎名誠と福田和也。相まみえないふたりの共通点

【1】『別冊カドカワ 総力特集井上尚弥』(カドカワムックNo798/角川書店)より引用。

【2】森合正範『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)より引用。

【3】スティーブン・ブラント『対角線上のモハメド・アリ』(三室毅彦・訳/MCプレス)より引用。

【4】ブラントの取材からさらに時を経た2011年、フレージャーがアリの謝罪を初めて受け入れ、許し、ほどなく死去したという一部報道もあるが、筆者が調べた範囲ではフレージャー自身の「発言」だと十全に確認することはできなかった。

【5】ボクシング・マガジン7月号増刊『モハメド・アリ 永遠のチャンピオン』(ベースボール・マガジン社)より引用。

【6】グローブを破ったのはアリ本人ではなく、トレーナーのアンジェロ・ダンディである。アリがこの出来事を恥じた記録は残されていない。

【7】『Number WEB』より引用。インタビュアーの杉浦大介は、ワヒード・ラヒームが繰り出す「物語」を丸呑みせず、食い下がって質問を重ねている。

【8】『cocoKARA next』より引用。

【9】『サンスポ』より引用。

【10】
井上尚弥『勝ちスイッチ』(秀和システム)より引用。原文は〈他人に興味がない〉、〈最近は、勝利をデザインすることを「作業」という言葉で表現することが多い。一撃必殺のKOパンチを当てる前に、相手をいかに弱らせるか、の作業である〉。

【11】『別冊カドカワ 総力特集井上尚弥』(カドカワムックNo798/角川書店)を参照。原文は〈子供の頃の夢は? 特になりたいものがありませんでした(…)幽霊を信じる? 信じない(…)宇宙人を信じる? 信じない(…)占いを信じる? 信じない(…)なにかジンクスはありますか? あえて作らない〉。同書では「神を信じるかどうか」という問いはなされていないが、幽霊(的なる存在)を信じない者が神を信じるとはなかなか考えられないので、本稿のように記した。

【12】井上尚弥『真っすぐに生きる』(扶桑社)より引用。

【13】一般に、メリトクラシーは「成果主義」、「能力主義」と訳されることが多い。テレビや新聞といったマスメディアはしばしば「格差社会の是正」を主張し、資本(金銭・財産)の再配分を唱えるが、その視線をプロスポーツに向けることはしない。
2019年の時点で井上のファイトマネーは1試合5000万円(WBSS)を超え、2020年には約1億円、フルトン戦では3億円以上とされている。その途方もない報酬を、井上は〈僕の実力に相応の金額〉、つまり当然だと考えているようだ。

〈1試合、1試合、結果を出すにつれファイトマネーが上がる。分かりやすい成果主義(…)ここまで、父も僕自身もファイトマネーに対しての不満は一切ない。「プロボクサー・井上尚弥」の価値を十分に評価していただき、今現在の僕の実力に相応の金額をもらっていると思っている〉(『勝ちスイッチ』より引用)

この素朴な――ともすれば幼い――感覚を敷衍すると、たとえばエッセンシャルワーカーや非正規雇用者たちが、最低限度の文化的な暮らしを維持できないほどの「少ない報酬」で働かざるを得ない状況も、たんに彼ら自身の〈実力に相応の金額〉が支払われているに過ぎないという結論が導き出されかねない。
しかし、こうした問題は井上に発するというより、井上や大坂なおみ、大谷翔平といった超格差社会アメリカの経済構造の恩恵を受けるプロスポーツの勝者を、どういうわけか“市民が目指すべきロールモデル”として扱い、無批判に褒め称えるマスメディアのやり口に根差す問題だろう。
誰であれ、特定の者に金銭が集中する経済構造(プロスポーツも当然含まれる)それ自体を前提から疑い、社会や共同体における極端な富の偏りを防ぐための議論を仕掛けるのが、マスメディアが本来果たすべき役割ではないのか。
その一方、総体としての社会、共同体ではなく狭義のスポーツの中では、井上尚弥は非の打ち所がないロールモデルだ。どの試合であってもささいな反則の兆しさえなく、つねに正々堂々と闘うその姿は、競技者の鑑として仰ぎ見るほかない。

【14】補註13に関連し、井上が狭義の「プロボクシングにおける経済構造」については十二分に理解していることを付言しておきたい。

〈今や世界中から井上との対戦を熱望するボクサーたちが列をなし、選ばれし者しか対峙できない。そんな状況を踏まえて、私はこう尋ねた。
「以前と違って、みんなが井上尚弥と闘いたがっている。対戦することで箔が付くというのか。それを感じますか?」
すると井上は、リングの四方を囲むロープに刻まれた「docomo」のロゴを見て、私に目配せをした。
「これですよ、ドコモのお蔭ですよ。もちろん、自分がPFPで上位にランクされているのもあるでしょう。それにプラスして、日本でやれば何倍ものファイトマネーがもらえるというのも相手にとってデカいと思いますよ。勝っても負けても、闘う価値があるというのかな」(…)フルトンは交渉段階で「富と名誉を得られるなら、こちらから日本に行く」と語り、これまでと一桁違う報酬を手にした〉(『怪物に出会った日』より引用)

このように経済構造の局所に絞れば、井上は敗者にも莫大な富を分け与えているが、そのことが総体としての経済構造の公平性や正当性を保障するわけではない。