森合の言葉、井上の言葉
森合は『怪物に出会った日』のエピローグで、同書に井上の言葉を差し込まなかった理由について釈明している。
〈確か、私が「怪物に敗れた男たち」と題し、佐野友樹と河野公平についての原稿を「現代ビジネス」に記した後だったと思う。井上から「読みましたよ」と伝えられた。「どうでした?」と聞くと、少し考え、困ったような表情に変わった。「うーん、なんて言えばいいんだろう。どうしよう……」そう言って、口をつぐんだ。井上は試合の勝者であり、何かを語ることは対戦相手に礼を欠くと考えているようだった〉【2】
はたして、そうだろうか。
これらの試合について、井上は過去に語っている。ライトフライ級の10回戦でTKO勝利した佐野友樹について、「森合が書いた言葉」と、「森合が書かなかった井上自身の言葉」を並べると、なぜ森合が井上の言葉を排したのかが見えてくる。
まずは、森合による描写。
〈試合はすぐに動き出す。開始一分二十秒。佐野が上体をわずかに下げた瞬間だった。ダイナミックで天高く突き上げる左アッパーが飛んできた。この試合で井上が初めて放ったアッパー。網膜裂孔の手術をした右目に直撃し、右まぶたをカットした。この一発で佐野に異変が起きた。「試合であのアッパーが一番効いた。パンチをもらった右目だけでなく、あまりの衝撃で左目まで見えなくなったんです。『パン!』と打たれて両目とも見えなくなったんです」パンチを浴びた反対の目まで見えなくなる。そんなことが起こりうるのか〉【2】
井上の言葉。
〈少し大きめなアッパーを放つと、佐野さんの右目上がカットし、出血をし始めた。ボクサー以外にとって残酷な感覚に思えるかもしれないが、ボクサーにとって、相手の目じりをパンチでカットできたのは、この上ない追い風だ(…)僕は右ストレートを警戒させておきながら、左のボディアッパーを打つと見せかけておいて、その左を顔面へのフックに切り替えるというコンビネーションで、最初のダウンを奪った〉【12】
井上は、試合の展開について饒舌に語ることができる。だが、試合相手の物語にはこれといって関心がない。ゆえに、すべての売文業者は商品としてのストーリーを組み立てることができない。物語とはたいていの場合「誰かとの物語」であるから。
ほとんど同じように作られた「対角線上の~」は、敗者を通じてアリの一面を浮き彫りにするが、「怪物~」はなかなか井上を描き出せない。その根本的な違いは、ブラントと森合の書き手としての実力の差ではなく、井上の存在そのものに由来している。