バンデージに難癖をつけたトレーナー
おまけに、アリは汚いボクシングをした。強烈なダウンをとられたヘンリー・クーパー戦では、回復時間を稼ぐために自分のグローブを破って1分間のインターバルを2分以上に引き伸ばしたり【6】、親指を開いてジャブを打って、意図的に相手の目に指を突っ込んだり――その醜態は、スティーブン・フルトンの姿にも重なる。
フルトンのトレーナーであるワヒード・ラヒームは公式会見の席で井上のバンデージの巻き方に難癖をつけ、フルトン自身は踏み込みを邪魔するため、試合中に何度も繰り返し、井上の前足を踏みつけた。しかし、井上は意に介さず、巧みに距離を詰め、腹に槍のような突きを見舞い、8ラウンドで殴り倒した。
試合の後、負けた者らは「物語作り」に精を出す。バンデージに難癖をつけたトレーナーは〈日本ではルールが違うと分かったのは抗議をした後だ〉【7】といけしゃあしゃあと語り、〈俺は帰る前に楽屋裏で愛を見せたんだ〉【8】とフルトン。
対して、井上は〈1回踏まれたときに、たまたまかと思ったけど、5回、10回ときて、故意にやっていると感じた(…)フルトンは足を踏むのを意識していたと思うけど、4、5回ぐらいからは踏みにいく余裕がなくなったので、そこからは踏まれなくなった〉【9】と語るだけだ。
井上尚弥は〈他人〉に興味がなく、試合相手を倒すことを〈作業〉と呼ぶ【10】。子供の頃から夢を持たず、神々や宇宙人の存在も信じていないので縁起も担がない【11】。
〈ボクシングの書籍に付き物のハングリーな物語は僕には存在しない(…)僕のポリシーは、「リング上のパフォーマンスがすべて」。そこに付随する物語の必要性はプロとして感じない。人生の苦労などない方がいいに決まっている〉【10】