我々はなぜ芸能人の余技を厳しい目で見てしまうのか?

 

一般社会では副業解禁といったニュースがよく聞かれるようになった。
私自身も言ってみれば兼業ライターだが、本業を持ちながら、副業で特技を生かすようなことが大っぴらに認められる世の中になったことは、なかなかに感慨深い。

しかし昭和の時代から今に至るまで、芸能人が本業以外で何かを始めることはあまり歓迎されない。

芸能人にとって本業とは何なのかというのはそれはそれで難しいが、大体の場合「世に出た際の肩書」がその人の本業とみなされることが多いだろう。

芸人として世に出たならこの人の本業は芸人だと思われるだろうし、ミュージシャンとして世に出たならミュージシャンが本業と世間の人は認識するのが常である。

俳優が歌を出したり、芸人が俳優業をやったり、コント師が脚本を書いたりというのは、比較的本業の延長線とみなされるが、アートに傾倒したり映画監督をやったりすることは未だに何となく色眼鏡で見られてしまう。オンラインサロンとかレストラン経営みたいなお金の絡む事業となると、かなり色の濃い眼鏡でその人のことを見てしまう。

お金の匂いのするゾーンのことは話がややこしくなりそうなので一旦置いておくとして、芸能人が余技に精を出すことはなぜこんなにも斜に構えた目で見られるのだろう。

理由の一つは、おそらく芸能人パワーを使って特定の分野に気軽にズカズカ踏み込んでいくのは、専業でやっている人に失礼なのでは?みたいな感覚だろう。

確かに、画家を目指し続けてやっと小さな画廊で個展を開けるようになった人と比べて、芸能人はその知名度とパワーを使い大きな美術館で個展をバンバン開くみたいなイメージがあるかもしれない。

助監督として下積み何十年というような人を差し置いて、映画を撮ったことのない芸能人がいきなり監督としてすべてを決めることに抵抗を感じる人もいるだろう。

芸能人が何か本業以外のことをやる=片手間の余技という先入観で物を見てしまっているというのもあるかもしれない。そんなんやってる暇があるなら本業をもっとちゃんと頑張れよという気持ちは、どこかしら心の片隅には生じる。

そこで片岡鶴太郎である。