“諦め”が「不惑」ということのなのか
「不惑」と「初老」。どちらも40歳を指す言葉だ。
(正確には数え年で、昔は使っていたけど云々…というツッコミはひとまず忘れてください)
自分自身が30代半ばを過ぎ、少しずつ40歳が現実味を帯びてきた頃、こうした言葉が自然と目や耳に入ってくるようになった。
「年相応にしっかりしなきゃ」という先輩方のアドバイスもあったし、「これらの言葉が生まれた時代と今とでは、平均寿命も社会構造も全く違うのだから、現代の40歳に不惑や初老という言葉は当てはまらない」という人たちもいた。
自分に関して言えば、不惑はともかく「初老」は当てはまっていたように思う。病気もしたし、肌や髪の質も変わった。「老い」という言葉の定義は人それぞれだろうが、あの頃始まった変化が今に続いているという実感がある。薄毛もそのなかのひとつ。
こうした体の変化に内面が反応したのだろうか。
人との出会いや気づきの機会が徐々に減り、毎日が同じことの繰り返しのように感じることが増えてきた。気がつけば自分が成長しているという感覚もいつしか失われている。
どうやら自分はこのあたりなのでは……。
もしかしたらこの“諦め”が「不惑」ということのなのか? と考えたこともあった。
だけど『東京ハゲかけ日和』を描いているうちに、「自分はこのあたり」の壁にタッチしたその先に、また次のなにかが待っているのでは? という気もしてきたのです。
薄毛のはじまりに感じた自身の老いの兆し、周囲との格差、友人の病気や両親の加齢……。僕にも漫画の中のキャラクターたちにも、今後も新たな強敵が次々と襲いかかってきそうだ。
人生の後半戦、本当に自身の大きな成長や変化が見込めないのなら、自分の中の引き出しをひっくり返して、その中にあるガラクタを組み合わせてでも新しい武器を作り、そんな強敵たちと戦っていくしかない。
そうやって腹をくくること。
それが、自分なりの新しい「不惑」なのだと、最近は自分に言い聞かせている。
『東京ハゲかけ日和』は現実とのバトル漫画でした。
不安を先送りせず、ひとつひとつに向き合い、自分だけの小さな楽しみを見つけていく。
彼らの戦いはこれからも続きます。
【漫画】『東京ハゲかけ日和』 第25話(漫画を読むをクリック)
トリバタケハルノブ まんが家/イラストレーター。まんが業→「トーキョー無職日記」「ことわざたずね旅(朝日小学生新聞にて隔週連載中)」「酒場はじめます(作画)」など。
イラスト業→「のぞき見探偵が行く!(月刊ジュニアエラ)」「ぶらぶら美術博物館おさらいイラスト(BS日テレ)」「戦国ベースボール」「こども戦国武将譚」 ほか。