もし生きていれば、自民党ハト派の重鎮として活躍していたかも
安倍晋太郎の父・寛は東京帝国大学を卒業するや、銀座に当時としては高級だった自転車の輸入販売会社を立ち上げた。
さらに政界にも進出。ふるさと山口県日置村の村長となり、村の青年のための農村塾を開塾、「今松陰」と呼ばれる。
山口県会議員になり、昭和12(1937)年に総選挙に出馬、当選した。
太平洋戦争中、三木武夫とともに「国政研究会」を創設し、東條英機総理大臣の戦争政策を批判。特高警察にもマークされた。昭和18年には、東條内閣の退陣を求め、戦争反対、戦争終結の運動を起こしている。
敗戦後、ようやく安倍寛の時代が訪れたと思われた昭和21(1946)年1月30日、カリエスを患っていた寛は心臓麻痺で急死した。51歳だった。
もし生きていれば、自民党ハト派の重鎮として活躍していたかもしれない。
安倍晋三は、身の危険を感じながらも、平和を願い、権力と命がけで戦った祖父寛の持つ反骨魂も秘めているのだ。
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