「納豆の会社ですか?」と言われたことも…
お好み焼課の転換期となったのは2000年。全国に「オタフクソース=お好み焼き」という企業イメージを浸透させることがミッションとなった。その当時、広島県外での同社の知名度はまだ低かったことに加えて、広島のお好み焼き自体も全国に広まっていなかった。
「昔は、関東の方からは『足袋の会社ですか』とか、『納豆の会社ですか』とか言われました。オタフクの顔を見たらお好み焼きを想起してもらうことが大切だと痛感しました。私たちもそれまではお好み焼き店でのシェアを広げることばかりを考えていましたが、そこからは、そもそもお好み焼きを日本中に普及させるにはどうすればいいのかと、発想が変わりました」
とはいえ、部署のメンバーは5人程度。人海戦術は使えない。地道に全国を回るしか方法はなかった。さらには老若男女にアプローチしたいという思いもあったため、春名さんらは事前に各地の福祉施設や学校、スーパーマーケットなどに電話をしてアポイントを取り、キャラバンカーに鉄板と材料を積み込んで、広島から現地へと向かった。
「札幌や仙台などお好み焼きがあまり食べられていない地域にもクルマで行って、集まった人たちに試食してもらいました。東京で開催されたフード関係の大型イベントにも出展しましたね」
そうした草の根活動を続けていると、次第に「うちにも来てくれ」という声がかかるようになり、徐々に広島のお好み焼きとオタフクソースの認知も広まっていった。
もちろん、オタフクソース一社だけでお好み焼きという食文化を普及させることはできない。タイミング良く、2000年代以降、広島から県外に進出するお好み焼き店がちらほらと出てきたのだ。
「お好み焼きって、もともとはご年配の方がメインでやっていた商売でしたが、若い人たちが『これは面白いから一生の仕事にしたい』と、チェーン展開する動きが出てきました。そうなると広島だけではなくて、東京など人が大勢いるところに行って商売しようとするわけです」
県外に出ていった店の中には、オタフクソースの研修で腕を磨いたオーナーも多い。
「教える人がいないと、物事は広まりません。お好み焼きがこれだけ広まったのは、私たちの力だけでなく、いろいろな店主が寛大だったからだと思います。自分のところだけでノウハウを閉じるのではなく、皆に焼き方を教えたり、売り方をアドバイスしたり。私たちもその一端を担えたのは良かったです。
ありがたいことに、『わしもお好み焼き屋さんをしたいんじゃけど』という人に対して、『それじゃあ、オタフクさんに行ったらええ』と、うちを紹介してくださるお店の方もいらっしゃいます」