「スピード出世」の裏側にあった葛藤

今年3月の世界選手権。渡辺はSP演技直前、じっと目をつむり、その場にいられる愉悦を感じていた。
「いつか見たい」。そう願っていた景色が目の前にあったはずだ。

冒頭のトリプルアクセルは悪くない回転軸だったが、着氷で失敗した。続くルッツは回転がほどけてしまった。

現地に入ってから、SPの軌道でのルッツがはまらない現象が起きていた。練習での不安がそのまま表に出た。最後に予定では単独だったループのセカンドに急遽3回転トーループをつけて意地も見せたが、得点は60.90点と伸びず、15位と厳しいスタートになった。

演技後、彼女は赤く目をはらしていた。取材エリアに出て来るのに時間がかかったのは、しばらく涙が止まらなかったからだ。

――涙の理由は?

記者に聞かれた彼女は、気持ちが波立つ中でも論理的思考をフル稼働させ、こう返している。

「目標にしていたものをできなかった悔しさかなと。そこで温かい歓声や拍手を受けて…。自分の中でも、ジャンプは決まらなくても最後まで滑ることができた思いはあるんですが。だからこそ、複雑なところで」

世界選手権までたどり着いただけでも、ひとつの成功と言えるだろう。

「スピード出世」

渡辺は世界選手権出場まで駆け上がってきた軌跡について、独自の表現をしていた。達成感や喜びと同時に、アジャストしきれない葛藤もあったのだろう。それが成績の波になったし、後半戦に入って消耗からパワーダウンした。

「1年半も経たないうちに、新人のペーペーから部長まで出世した感じで。よくも悪くも、こんな景色を見られると思っていなかったです。

この場(世界選手権)にいられるのはありがたいことなので、この経験をどうにか活かせるように」

そう語っていたフリーでは、いつものように巻き返し7位と健闘。スピン、ステップとすべて最高難度のレベル4で、『JIN-仁-』の世界観を氷の上に再現。総合は10位だった。

1年少し前の自分と、ギャップがないはずはない。加速度的成長を自分の中に落とし込む時間は必要だろう。経験のおかげで、悪い流れをリセットできたり、短い時間でも修正できたり、競技者として幅が出るところはある。

ただ、うまくいかない中でも軸は揺らいでいなかった。

「フィギュアはジャンプだけで決まるわけではなくて」

世界選手権のSPでジャンプの失敗が続いて、「気落ちしなかったか?」と質問を受けた渡辺は、涙で目を腫らしながらも毅然と答えていた。

「フィギュア自体、芸術というか、作品なので。その世界を壊さずに、まとめ上げるのが大切だと思っています。

ジャンプが得点源なのは間違いないし、悔しさはありましたが、スピンの出来次第では、ジャンプの分も取り返せたりするし。(ジャンプ失敗が)諦める理由にはなりません」

何気ない証言に、渡辺の肖像が浮かぶ。粘り強くフィギュアスケートを追求し続けてきた人生に原点はあるのだろう。その矜持というのか。

巻き返しの物語は、ひとつのスペクタクルだった。みずみずしさと葛藤のシンデレラストーリーには、まだ続きがある――。

文/小宮良之
写真/AFLO

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