予期せぬ出会いを生み出す場所=「庭」
宇野 もうひとつは、人間よりも、物事の力がもっと強くなるべきだということです。いま『群像』で連載している「庭の話」では、タイトル通り比喩的な「庭」の可能性について考えています。「庭」とは人間が人間外の「物事」と出会う場所です。そこは人間が関与できるけれど、支配はできない。
「飲み会」でボスの機嫌を取るために、ボスの顔色ばかり窺っているとものを考える力は弱っていくし、そこで偶然出会う物事への感度も低くなって、出されている料理の味はわからなくなる。やっぱり、人間が純粋に人間間の承認の交換のゲームからはなれて物事に触れ合える場が必要で、それを僕は「庭」の比喩で考えています。
たとえば夏の雑木林に迂闊に入り込んだら、虫に刺されるじゃないですか。こういう体験が重要なんです。「庭」に存在している物事が強い力を持って我々に襲いかかってくることで「事故」が起こるわけです。自分が事物を能動的に見つけに行くのではなく、事物の方が我々に襲いかかってくる──そんなイメージを復活させることが大事なのではないかと最近考えています。
レジー なるほど。
宇野 SNSがどれだけ発展しても、あるいは人工知能のレコメンドの精度がどれだけ高まっても、結局自分の好きなものに出会うだけなんですよね。「マームとジプシーのファンがヤマシタトモコに出会う」くらいの、当たり前のことしか起こらない。
一方で、カリスマ店長がいる個人書店みたいなものも、僕は大好きだけどやっぱり「庭」にはならない。そこにあるのは店主の棚という「作品」を眺める喜びであって事故のような出会いではない。僕が考えたい「庭」というのは、自分から興味を持たなくても向こうから襲いかかってくるような事物の力、それによって事故——つまり、予期せぬ出会いを生み出すことのできる場所なんです。
僕自身も子どもの頃に予期せずして石ノ森章太郎や富野由悠季に出会ったことで、人生を狂わされてしまった人間なわけです。そういうものに出会うと、否応なく変身させられてしまって二度と元に戻れない。そんな受動的な主体、マゾヒスティックな主体を考えたいんです。ロレンスの耽溺したマゾヒズムを、ポジティブに活用したいわけです。
レジー マゾヒズムはひとつ重要なキーワードですね。自分のことを自分でコントロールできる主体じゃなくて、何かを受け取り変容してしまう主体。ファスト教養と自己責任論のつながりについて本で述べていますが、自己責任という考え方自体が「何もかも自分でどうにかできる」という発想と分かちがたく結びついていると思います。そこからどう脱却するかというのは重要なポイントだなと。
宇野 多くの人は自由に能動的になることで相互評価のゲームから抜け出そうとするけど、実はそうやって何者かになろうとする時点でもうゲームに囚われてしまっている。それはコンプレックスを抱えたアムロやシンジ君みたいな少年が、モビルスーツという拡張身体やSNSのアカウントを手に入れてイキっているようなものですね。
対して、本郷猛や一文字隼人は自分から仮面ライダーになったのではなく、ショッカーに改造されて「変身」できるようになった……というのは半分冗談ですが、僕は「なりたい私になろうとする」ことはあまり人間を変えないと思っているんです。
たとえば僕自身はサブカルチャーのせいで私生活とか半分ぐらい壊れているわけですよ。1日のうち1時間ぐらいはオークションサイトをチェックして、「このフィギュアは既に3つ持っているんだけど、状態のいいものがこの価格で出ているなら俺が保護しなければならん」とか思って気がついたら購入している。そして自宅の部屋とかもう、とんでもないことになっているし、そのことで可処分時間や可処分資産の何割かが確実に失われていってるわけで(笑)。
レジー (笑)
宇野 でも身体が変化してしまっているからもう止められないんです。その時には完全に相互評価のゲームの外側にいて、自分の社会的な地位や人からの見られ方、もっと言えば締め切りやお金なんかもどうでもよくなっちゃっていて社会人としては破綻しているんです。
レジー 僕も中古CD屋で好きなバンドやアイドルのCDが100円とかで売られているのを見かけるとすでに持っているのに「これは自分が保護しなくては!」となったりするので、その感覚は大変よくわかります。その瞬間は合理性みたいなものとは距離がある状況に置かれる気持ちよさがありますよね。
ファスト教養の根本には、「何でも簡単にわかったことにしたい」「時間だったり仕事の成果だったり、すべてのことを自分の理解できる範疇で管理したい」というマインドがある気がします。事物の暴力性やマゾヒズムの強調はたしかにそれに抗うところがあるかもしれないですね。
取材・構成/松本友也
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