マゾヒスティックな快楽を受け取れる読者を育てる
レジー 文化の受け手をどう作っていくかという話は、僕も最後の第6章を書く上での大事な論点として考えていました。自分はこうやって本を書いたりして何かを発信する立場にいる一方で、それだけを生活の糧にしているわけではない点では「半分は発信者だけどもう半分は受け手」というような意識が強くあります。
なので、「文化の受け手をどう作るか」というのは「自分はどう立ち振る舞うべきか」という問いでもあるんです。そういうマクロな問いとミクロな問いを行き来しながら、「ビジネスの役に立つ」という発想とも両立する今の時代らしい知のあり方を見出したいという思いがありました。
宇野 僕は書かれたものに純粋に向き合って、しかもそのことから苦痛ではなくて、ある種のマゾヒスティックな快楽を得られるような読者を、きちんと時間とお金をかけて作っていかないとダメだと考えているんです。
「発信」して自己主張したい人は増えたけれど、僕の考えでは文化は何よりまず、他人の話や妄想を受け取ることを面白がってしまうというか、自分の外側にある圧倒的なものに自分が侵食されて、壊されて、変えられてしまう快楽を覚えることが出発点だと思うんです。これがいま、「発信」の快楽に酔うことで忘れ去られてしまっていると思います。
たとえば、コロナ禍の影響もあって、今は今ってやたらとオンラインイベントが乱発されているけど、ああいうものに夢中になってコメント欄に張り付いている人たちは、「発信」の快楽に耽溺しすぎているって思うんです。
やっぱり、登壇者のご機嫌を伺って、認められたい気持ちから迎合的なことを書いてしまうし、登壇者も受けを取りたくてどんどんコメント欄のモードに引っ張られていく。そして気がついたら、みんなで叩きやすい対象を欠席裁判して盛り上がるだけの場所ができてしまう。
そういった場所では登壇者が「敵」に対するデマを流して中傷しても、誰も諌めない。要するに、みんな「バカ」になっている。僕はこれを「オンラインイベント症候群」と呼んでいます。そしてそんなオンラインイベント症候群にハマっている人が堂々とオンラインサロンブームを批判していたりする。ハッキリ言って滑稽です。でも、大事なのはやっぱり自分たちがどう、オルタナティブを作るかだと思います。
レジー 宇野さんが最近出されたご著書『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)の終盤でも、そうした状況への処方箋として、プラットフォームの捉え直しの話がでてきますよね。関連して、序盤の方でエリート層の「賢い」言葉が届かない「忘れられた人々」(トランプ支持者であるアメリカの中産階級)についても論じられています。
こうした人々に対して、宇野さんはどうやってご自身の処方箋を届けていこうと考えているんでしょうか。実は僕自身はここについて執筆時点では少し考えあぐねていたというか、刊行後に読者の方からもらった指摘を通じてこの問題と今向き合っているという経緯があります。
宇野 回答は二つあると思います。ひとつは、地味な啓蒙がやっぱり大事だなということです。たとえばこの本にも出てくるロレンスはバイク事故で亡くなっているのだけど、僕が子どものころと現在を比べてみたって、交通事故は明らかに減少しているわけです。
みんな馬鹿にするし、即効性はないけれど、啓蒙は地味に、そして確実に効果がある。「どうせ大した効果はあがらない」と、とにかく人のやっていることに、よく考えれば何にでも当てはまるようなダメ出しをして自分を賢く見せるのが、インターネットではコストパフォーマンスのいい人生のごまかし方なのはわかりますけれど、そういう声を気にせずコツコツやり続けるのがやっぱり大事かなと。
レジー そうですね。長期戦で考えた方がいいだろうなというのは自分も思っているところです。