本物の職人世界に
――上林さんが文字書き職人になったきっかけはどんなものだったんでしょうか。
絵を描くのが好きやったんで、高校を出て舞台美術をやってたんです。大道具ですね。その現場に文字書きさんがたまに現れて、僕らが枠だけ作った看板にシュッシュッと文字を書いて帰りよるんですよ。それを見て「あっちの方がええなぁ」と(笑)
――文字書き職人さんに憧れを抱いたわけですね。
そうですね。それが20歳の時。で、地元もずっと貝塚市なんですけど、近所で探して、(同じく大阪府の)和泉市の親方のところにいったんですよ。今から思たら、その方が本物で助かったというか、ものすごいラッキーで。
――「本物」というのは、尊敬できる親方だったと。
文字書きの仕事してる人はもう、その当時すでにだいぶ減ってたんですわ。本当に技術を持ってる人を探すのが難しいぐらいで。僕の親方のいた集団は『南海広告社』ゆうて南海電鉄の電車の駅看板とかロードサインとか、そういうのに特化した看板屋でかなりレベルが高い看板屋だったんです。
その親方が僕より18歳上やったんですけど、当時の業界ではその人が一番若手ぐらいやったんですよ。そこに20歳の僕がぽっと入ったもんやから、ほんまに可愛がってもうて、甘やかされてね(笑)
――それは何年前ぐらいの話ですか?
僕が今56歳なんで、36年前ですね。1986年ぐらい。
――親方のもとでどんな修行をしていたんですか?
これといって具体的には教えてもうてないねぇ(笑)最初はずっと親方の仕事を見て、3、4年したら書かせてはもろてたんやけど、今から思うとようそんなんでやらしてもうてたなゆう状態でね。文字書きの真似事ゆうか。