心臓移植をめぐる、理性と感情の闘いのゆくえ『命の横どり』久坂部 羊 インタビュー_1
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置き去りにされているドナー家族

── 一気に物語に引き込まれました。しかも考えさせられることも多く、心を揺さぶられる作品です。なぜこの物語を書こうと思われたのでしょうか。

 もともとは臓器移植コーディネーターという仕事に興味があったんです。移植を希望する方に臓器が適切に渡るよう調整し、あっせん手続きを行うのが移植コーディネーターの主な仕事です。すでにいろいろな小説やドラマでも描かれているのでご存じの方も多いと思いますが、臓器の提供を待つ人たちがリストに名を連ねていて、ドナーが現れると、JOT(日本臓器移植ネットワーク)が誰に提供するかを決めることになっています。
 そのとき、移植をしないと余命が三か月の人と二年の人がいたとして、二年の人のほうが先に登録していたらどちらを優先するのか。三か月の人のほうが緊急性は高いですが、かといって二年以内にもう一人ドナーが現れる保証はない。そういう難しいジレンマが現場にあるので、移植コーディネーターの仕事や葛藤、悩みを小説にできるんじゃないかと思いました。担当編集者にそのアイデアを投げたら賛同してくれたんです。
 ただ、編集者から「問題は既視感です」と言われたんです。つまり、これまでに書かれてきたような話じゃ駄目ですよ、ということ。ちょっと考え込んでしまいました。
 そこで、昔、知り合いが「人間には死にきる権利がある」と言っていたのを思い出したんです。『命の横どり』の中で同じセリフを人権派弁護士に言わせていますけど、脳死はまだ人が死にきっていない状態なんだと。だから脳死状態の臓器提供は人権侵害だという理屈ですね。
 医師の立場として言うと、脳死が死であることは疑いがない。でも、脳死の時点では、脳の動きは止まっているけれど心臓がまだ動いているから、脳死=死だと受け入れられない人もいるんですよ。移植手術に同意したものの本当によかったのだろうかと後悔するなど、ドナー側の家族の苦しみを考えるようになって、移植コーディネーターや移植に関わる医師だけでなく、ドナー側の事情を知る人たちも視野に入れて取材を始めたんです。
 ちなみに移植コーディネーターには、臓器を提供する人とその家族に関わる「ドナーコーディネーター」と、臓器の移植を受ける人に関わる「レシピエントコーディネーター」の二種類あるのですが、本に出てくる立花真知(まち)は後者で、移植を待つ患者を担当しています。

── 『命の横どり』では、将来を期待されている十八歳の女子フィギュアスケート選手が重い心臓病にかかり、心臓移植を待っています。そこへドナーが現れて希望の光が見えてくるのですが、脳死を死だと認められない家族が週刊誌に訴えるなどして、大きな社会問題になっていきます。

 臓器移植は、移植によって命が救われたというおめでたい話ばかりにスポットが当たりがちなんですよね。でも、その陰には臓器提供した人がいて、臓器によっては心臓のように脳死の段階でご家族が決断しなければならない場合がある。ドナーの意思がはっきりしていたとしても、ご家族の中には脳死を死と受け入れられない人も出てくる。そこで苦しむんですね。
 そういうことについて、大阪大学人間科学研究科で研究されている山崎吾郎教授に話を聞きに行きました。欧米に比べて日本ではドナー家族が置き去りになっていて、国民性なのか、悩みを抱えたまま黙って我慢している人が多いそうです。その話を聞いて、おめでたい話と、その一方の置き去りにされているドナー家族に光を当てれば、既視感を払拭したドラマが書けるんじゃないかと思ったんです。

── 久坂部さんは『人はどう死ぬのか』『死が怖い人へ』など、死をテーマにした新書もお書きになっているので、ご自身の死生観ははっきりしていると思いますが、小説では考え方の違う登場人物たちがそれぞれ自分の考えや気持ちを述べていきます。そこに小説ならではの面白さを感じました。

 ありがとうございます。小説を読むときには、主人公に感情移入して読む方が多いと思うんですが、『命の横どり』の場合は、それぞれの言い分が対立していることにリアリティがあると思います。一人の主人公に共感して読み進めるのではなく、自分が登場人物の誰に考えが近いかを考えて読んでもらえるといいなと。それを目標にして書きました。

命を救う医者はヒーローではない

── 久坂部さんの小説にはヒーローや単純な善人は出てきません。『命の横どり』でも、臓器移植推進派の医師・一ノ瀬や、人権派弁護士の木元はそれぞれクセがあって、それがまた面白いですね。

 私の持ち味というのか、欠点というのか。読後感がすっきりしないとよく言われます(笑)。私は出自が医療なので、医療現場ではなかなかそううまくはいかないぞ、と思ってしまうんですよね。スカッとしない現実を知ってもらいたい気持ちが強いんです。

── 現実を直視せよというメッセージは新刊『命の横どり』からも伝わってきました。でも本書は、考え方の違う人たちの応酬はありますが、読後感は爽やかですよね。

 そう感じていただけると嬉しいですね。『命の横どり』というタイトルはどぎついですが、移植は命の横どりじゃなくて命の贈り物なんだよ、と登場人物たちに納得してもらわないと物語が終われない。理性と感情との闘いを描いていますが、最後は理性が勝つようにしたかったんです。そのためにどうすればいいかを考えました。

── 心臓移植を待つフィギュアスケーター、池端(れい)のキャラクターもリアリティがありますね。子供らしい楽しみや、友人たちとの時間を捨てて、ひたすら目標に向かって走ってきただけに、病気でそれが失われそうになって、とても平静ではいられない。移植を待つ患者さんの内面に触れたように感じました。

 スポーツであれ、芸術であれ、あるいはビジネスでも政治でも、どんな分野でも、活躍している人たちは、実は多くのことを犠牲にしているんですよね。努力に努力を重ねている。だからこそ、その道でうまくいかなくなったら本当につらいと思うんです。
 以前から疑問だったのが、アスリートの自伝やフィギュアスケートのインタビューを読むと、楽しまないと勝てないとか、楽しいから続けられたとよく言っているんですが、本当かな? と。そんな甘っちょろいことでは勝てないんじゃないかとどうしても思ってしまうんですよ。

── 麗は移植コーディネーターの立花真知に反発したり、当たったりもしますよね。そうなってしまうのはしょうがないくらい苦しんでいることがうかがえました。

 移植コーディネーターさん何人かに取材させてもらったんですが、難しい仕事なんですよ。患者さんに寄り添わなきゃいけないんですが、患者さん側の「あなたは元気なのに、死にかけている私の気持ちがどこまでわかるんだ」という気持ちも常に感じているはずなんです。患者さんのそんな本音に気づかず寄り添えているつもりになっていると、知らないうちに溝が広がってしまう。むしろ寄り添うことには限界があるとわかっていて、できる範囲で寄り添おうとしている人のほうが患者さんといい関係が築けるんですよね。それは医師や看護師といったほかの医療従事者でもまったく同じです。
 そこで小説の冒頭で、患者の麗とコーディネーターの真知があたりさわりのない会話をしているけれど、実は、それぞれはこう思っているという内心の声を書きました。私はいつも、医療関係者が読んで、現実と全然違うじゃないかと思われないように書きたいと思っているので、本音を書きたかったんです。

── だから、それぞれの登場人物たちが多面的なんですね。一ノ瀬先生は臓器移植推進派の心臓外科医で、常に患者さんのことを思っている熱心なお医者さんですが、強引なところがあって、決してヒーローではないんですよね。

 一ノ瀬先生はあえて性格のいい人物には書かなかったんです。現場で命を救うことに一生懸命になっている医者は、時として冷たかったり、残酷だったりするんですよ。患者を救うためだと思ってしまうと、周りが見えなくなってしまうんですよね。