臓器移植のダブルスタンダード

── 心臓移植は脳死の段階でしなければならないので、脳死が人の死か? という議論も重要です。死の定義をめぐってマスコミがテレビ番組で討論会をやったり、週刊誌が騒いだりという騒動が持ち上がります。

 この小説でいちばん書きたかったのはテレビ討論会の場面です。患者のことを思って移植を進めたい医者と、ドナー家族に寄り添って、遺族の気持ちを大事にする弁護士。どちらにも言い分があるので、両者を直接闘わせる場面を書きたかったんです。

── どんな議論になるのか興味深かったですし、臨場感がありました。

 あの場面を書くためのメモは、実はあの十倍ぐらいあったんですよ。お互いの言い分を出し尽くしたらそれくらいの分量になりました。とくにスポットを当てたかったのが「ダブルスタンダード」。多くの人が、自分や家族は脳死になっても治療を続けてほしいと望みますが、一方、自分や家族に臓器移植が必要になったら、脳死となった方の臓器を移植してほしいと望む。素朴な感覚とはいえ、ダブルスタンダードになっていることに気づいていない人が多いと思うんです。
 一ノ瀬がイギリスでイギリス人医師に言われた言葉がありましたよね。
「日本人の患者がイギリスで心臓移植を受けたら、イギリス人は二人死ぬんだ。一人は心臓を提供した者、もう一人はその心臓で助かったはずの患者だ」
 これは、私が実際に言われたことなんです。外務省の医務官としてサウジアラビアに行っていたときに、イギリスから来ていた心臓移植専門の医師に話を聞く機会がありました。日本ではまだ臓器移植法が施行される前で、イギリスに心臓移植を受けに来る日本人がいた。その話の流れで言われた言葉なんですが、非常にショックでした。

── 日本は臓器提供者が少なく、日本で手術を受けられないため海外で臓器移植をしたというニュースは時々聞きますね。そのときは移植ができてよかったね、と祝福ムードになりますが、それだけではないということですね。

 現場ではいろいろな問題があって、きれいごとではすまないんですよ。私もよく知らなかったんですが、作中に書いたように日本人の移植は断るという国もすでにあるんです。
 それと『命の横どり』を書いているときに読売新聞が移植問題をシリーズで取り上げていて、日本はドナーが少ないことが問題かと思っていたら、その少ないドナーの臓器を無駄にしている状況があるということが書かれていて驚きました。

── 本書にも出てきますね。医療的な受け皿が不十分だと。

 移植コーディネーターの人に聞いたら、心臓移植できる施設は日本にたった十二か所しかないというんですね。心臓移植は高度な医療なので、高度な設備とスタッフのいるところしか認定されないからかなと思ったら、そうではないんです。心臓移植は大きな赤字が出るので、やりたくても経営的に手を挙げられない病院が多い。保険点数、つまり国の政策の問題なんです。心臓移植を必要としている患者さんにとっては納得し難い状況です。

報道できないことを小説で書く

── 久坂部さんはデビュー作の『廃用身』から一貫して、医療における理性と感情のぶつかり合いを描かれていますよね。それと「現実を見よう」というメッセージ。マスコミを通じて知らされていることがいかに一面的かということですよね。医療関係者は建前上言えないことがたくさんあって、それを小説という形で伝えようとされている。

 現実を知ってもらうことが、患者さんとご家族の悲しみや苦しみを減らすと思うからなんです。こんなに医療が進んでいるんだから、きっと元気になるだろうとか、まさかこんなにあっけなく亡くならないだろうと思っているから、愛する人の死を引きずってしまう。それであえて医療現場で起こっている嫌な話、耳にしたくない現実を書いているつもりです。

── さすが医師の久坂部さんだなと思ったのが心臓移植の手術シーン。心臓移植の実際をかなり細かくお書きになっていて、興味深かったです。

 そこは私のセールスポイントなので(笑)。心臓移植はもちろんやったことはないですが、たまたま心臓移植を実際にやっている友人が二人いるんです。一人は高校、大学ともに同級生の澤芳樹先生。心筋再生医療の専門家で、大阪・関西万博のパビリオン『PASONA NATUREVERSE』で「iPS心臓」展示のプロデューサーをやっています。もう一人が小林順二郎先生。私の一学年上で、大阪大学でサッカー部の先輩でした。国立循環器病研究センター名誉院長をされています。二人とも心臓移植を経験されていたので話を聞いたり、移植の手順が書かれている論文を読んで参考にしました。

── 久坂部さんはこれまでにも高齢化社会や、安楽死、医療崩壊など、医療にまつわる不都合な真実を小説の題材にされてきましたが、まだまだ書くことはありそうですか。

 ありますね。医療が進めば進むほど、いろんなことが可能になるんですよ。我が子にいい教育を受けさせたいというのは親として自然な思いだと思いますが、優秀な遺伝子の子がほしいと遺伝子を操作するようになったらどうなるか。医学が発達することで怖いことはたくさんあるんです。
 私はメディアのことを小説の中で批判的に書くことが多いんですけど、実はメディアの人たちは優秀だから医療現場の問題をよくわかっている。けれど、読者が明るいニュースを求めるから暗い側面はあまり書かないんです。嫌なことを書いても喜ばれませんから。
 そういう意味では、私が書くような小説をきっかけに少しずつ理解が広まっていくといいなと思っています。実際、最近、世間の風向きが変わりつつあると感じます。少し前までは、どうすれば元気で長生きできるかという本が売れていましたけど、最近は私が書くような、どうやったら上手に死ねるかとか、老いをどうやって受け入れるかという、老いや死を受け入れる方向に世間の目が向いてきています。諦めずに書くことで、医療技術の進歩と、普通の人たちの気持ちのズレをちょっとでも埋められたらと願っています。

命の横どり
久坂部 羊
命の横どり
2025年10月6日発売
2,090円(税込)
四六判/384ページ
ISBN: 978-4-08-770020-6

【これは、他人事ではない。緊迫の医療サスペンス小説】

心臓病の専門病院で、適切な臓器の斡旋を行う臓器移植コーディネーターとして働く立花真知。
彼女は、五輪金メダリスト候補として注目を集めるフィギュアスケーター・池端麗を担当することになる。

麗はスケートの練習中に倒れ、拡張型心筋症と診断されていた。
副院長の一ノ瀬や主治医の市田の治療を受けながらドナーの心臓を待っているが、麗の血液は珍しく、大多数の心臓を移植することができない。
しかし、くも膜下出血で倒れ脳死判定を受けた男性ドナーの心臓が、麗に奇跡的に合致すると連絡が入る。
真知らは早速臓器の提供に向けて動き出すが、ドナーの母親が臓器提供に納得していないことが判明。真知は「禁断の方法」に手を出そうとする――。

ドナーとレシピエント、互いの思いが複雑に混じり合ってできた大きな渦は、とある男の登場によって社会問題へと発展し始める。
医師であり、これまでにも医療の現状にメスを入れてきた著者が描く「日本の心臓移植」の現実と未来。

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