江戸に「個人」は存在しなかった

田中 たしかに「一人の天才が何かをやる」という考え方は、江戸には全くなかったです。だから連を作る時も、たとえばすごく目立った人として、平賀源内みたいな人がいたとしても、「この人に全部任せよう」なんて思ってなくて、むしろみんなが馬鹿にしながら付き合っているということをやるわけです。

連では、そうやってお互いに自分を「分岐」させますから、分岐したところで他の人とつながります。自分の中にA、B、C、Dという人格があるとすると、Aでつながる人、Bでつながる人、Cでつながる人、Dでつながる人という具合に別々につながる。そして他の人たちもA、B、C、Dと分岐して、それぞれがつながっていくから、膨大なネットワークになるんです。

そしてこのA、B、C、Dというのは、自分で決めて分岐するものではなく、「この人と付き合ったらAという自分が生まれちゃった」とか、「これをやっていたらBという自分が生まれちゃった」というような感覚を持っているんです。これは関係が及ぼす力、つまり、「関係というものが生み出してしまう自分」なんですね。だから、自己主張を全然していないし、それから大体、江戸では「個人」というものが存在するなんて思ってもいないので、全てが関係の中で作られていく。複雑性とはそういうことです。

まず個という単位があって、個と個が結びつくのではない。そうではなく、全体的な関係性の中で、ある要因が別の要因に刺激されながら、別の分岐をしていく。だからたとえば「無限のツリー分岐」という概念も複雑性の中にあるけれど、でも、そういうものは自然界にはごく普通にあって、それが個別のものが合わさっているわけではないということを、私たちは感覚的にわかりますよね。

 そうですね。

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田中 それをちゃんと科学にしましょうと言っているだけのことなんです。だから不思議でもないし、あまり私は神秘的とも思ってないわけで。たとえば連句の場合には、桜が咲いている時に桜の木の下で連句会をやったりするんです。それは神様仏様というより、「自然界とつながることによって引き出される自分がある」という感覚をみんな直感的に持っているんですよ。それが連のやり方なんです。