複雑系科学と江戸時代の「連」
田中 本題に戻って、「新たな帝国主義」である「統合テクノクラシー」とは、どういうものなのか? これからのデジタル社会について考える時、AIについての楽観的な見方と悲観的な見方の両方があって、どちらにしても何かの期待を持っていますよね。
だけれども結局、「AIによる統合テクノクラシーは起こり得る」と本の中で分析していらっしゃる。それから、リバタリアニズムが進んでいって、もしかしたらそちらのほうで崩壊が起こるかもしれないという予感についても、いろんな論者の考えも引きながら分析して、その上で「第三の道」を書いていらっしゃる。
この第三の道は「デジタル民主主義」という、オードリー・タンとかグレン・ワイルがもたらしたものであり、実際に、私たちが知らない間に台湾では実現されている。だから夢みたいな話ではなくて、既に台湾にあって、それが香港の動きによってもたらされてという筋道で書いてあるので、現実性を感じます。「日本はそういう道に行くのか?」という問題提起をしていると思うんですね。
李 そうですね。台湾の話で若干危惧しているのは、確かにオードリー・タンたちの取り組みは素晴らしくて、日本でもオードリー・タンの本とか写真をたくさん見るんですけど、どうも「オードリー・タンという天才がいて、その天才が何でもやってくれる」みたいに思っている節がある。「だから日本も早く、オードリー・タンみたいな天才が登場してくれ」というような。
田中 そうそう、コロナの時代があったからそうなっているのよね。台湾はデジタル技術を駆使した政策で、国民にマスクが行き渡る仕組みをいち早く作り、大規模な感染を抑止した。
李 そうなんです。でも、オードリー・タンたちの発想は、日本の風潮とは真反対で、「天才が一人で上から率いる」のではなく、「みんなで一人ずつ協力して、ボトムアップで難局を乗り越えていこう」というものでした。そのあたりがよく理解されていないのではないか。今回の本で、みんなが自ら参加する「デジタル民主主義」のあり方が、しっかり伝わっていけばいいなと思っています。
田中 そしてさらに「Plurality(プルラリティ:多元性)」という面白い言葉もあって、これは複雑性の科学から発想を得ている。複雑性の科学って1980年代ぐらいに起こってきた随分昔の話なんだけれども、そこから刺激を受けて物を考える人はとても多くなった。多くなったけれど、その影響で社会とか政治のほうで何かが起きたかというと、大きな動きはなかった。だけど今、複雑性に刺激を受けた「Plurality」という方法があるということを書いてくださったから、私としては非常に面白かったです。
李 複雑系の話については、田中先生にお聞きしたいことがあります。複雑系って、すごく単純化して言うと、「部分の総和が総和以上のものを生み出す」というか、1+1+1が3にならずに、10にも100にもなるという話なんですよね。これって考えようによっては、すごく神秘的じゃないですか。
だから従来のニュートン的な科学、近代科学では捉えきれないものとして登場したのですが、先生の著書を読んでいくと、江戸時代の「連(れん)」の話がたくさん出てきます。連とは、身分を超えて形成された俳諧や狂歌のネットワークですが、これも「複雑系」ではないのか?と考えました。
たとえば狂歌の連では、人々がつながり合って歌をつくるだけではなくて、そこに神性というか、神みたいなものが降りてくるといった話を書かれています。連を形成することで、普段は一人ひとりの意識の表面に上ってこない力、すなわち神が働くのであると。
これは牽強付会かもしれないですけど、やはり人々が集うことによって、一人ひとりが今まで持っていなかった「創造性」が発揮される。それを以て江戸時代の人たちは「ここには神がいる」と感じたのではないか。そのように思ったのですが、いかがでしょうか?