ハンセン病者の犠牲

ハンセン病者たちは、第32軍によって愛楽園と宮古南静園に強制収容されていた。ハンセン病(当時は「らい病」と呼称)者の療養施設愛楽園は本部半島のそばの屋我地島にあった。

沖縄にやってきた日本軍は、収容されていなかった患者を乱暴なやり方で連行し、強制収容をおこなった。野良仕事をしている時に有無を言わせずに連行するようなこともおこなわれ、手荷物の持参さえ許されなかった者も少なくなかったという。

1944年9月末には愛楽園の収容者は定員450人の倍を超える913人に膨れ上がった(詳細は『沖縄県ハンセン病証言集』)。

愛楽園は米軍の砲爆撃によってほとんどの建物を失ったが、4月21日に上陸した米軍は療養所であることがわかると食糧などを提供するようになった。しかし長い壕生活や栄養失調、マラリアやアメーバ赤痢などによって、44年9月から45年末までの死者は289人にも達した(愛楽園「翼賛会日誌」、吉川由紀「ハンセン病患者の沖縄戦」)。

それ以前の死亡率は年間で数パーセント(42年2.3パーセント、43年3.3パーセント、44年6.2パーセント)であったのに比べると大幅に増えた(犀川一夫『ハンセン病政策の変遷』97-98頁)。

米軍から食糧を提供されていた愛楽園に対して、山中に隠れていた日本海軍部隊は、6月3日に米3石(約450キロ)、8日にも米3石などを出させ、7月までに25石を提供するように要求していたことが第27魚雷艇隊の中尉の日記でわかっている(RG407/Entry427/Box8327、保坂廣志『硫黄島・沖縄戦場日記』1・117-124頁参照)。

宮古島にあった宮古南静園では、米軍の上陸はなかったが空襲によって施設は壊滅的に破壊され、職員は職場を離れて避難したために患者たちは海岸付近の壕などに隠れたが、そうした状況が長く続いたために400人あまりの患者のうち110人が飢えやマラリアなどによって死亡した。

「アメリカが来たら手をあげなさいよ、そしたら助かるからね」と話した人が日本兵に殺された「一度米軍に捕まった者はスパイだ」と〈沖縄戦の住民虐殺〉_4

ところで当時の日本軍はハンセン病者を危険視し、沖縄では強制隔離によって大きな犠牲を出したが、太平洋諸島のナウルでは、海軍部隊が島の39人の患者をボートに乗せて海に連れ出し、大砲と銃で全員殺して海に沈めたこともあった(林博史「ナウルでのハンセン病患者の集団虐殺事件」)。

1995年に建立された「平和の礎」にはハンセン病者の戦没者が2001年に初めて刻銘され、2004年からは遺族の申請だけでなく療養所自治会の申請によっても刻銘が可能になり、2009年までに愛楽園関係者317名、南静園関係者101名が刻銘された(『沖縄県ハンセン病証言集』)。