米軍による住民虐殺
北部では海兵隊による住民殺害が多数知られている。捕らえた住民のなかから男たちを別にして射殺したケースがいくつもの証言によってわかっている。
たとえば、石川の山中では、妻や娘と一緒にいたひとりの男と20歳くらいの男のふたりが射殺された(北谷町『戦時体験記録』259頁)。羽地の山中の小屋に隠れていた瀬良垣克夫さんは父を米兵に射殺された(瀬良垣克夫『我が家の戦争記録』7頁)。
米水兵のセア・ビビンズは、4月11日に名護のある家で女性が強かんされて殺されたあとを見た、などいくつかの強かんのケースを記している。
彼は自著の序において、「私に言わせてもらえるなら、白色人種が世界中で一番問題を起す人種であると思う。ところが、我々は自分達を文明人だと思い込んでいる。ドイツ人はガス室を設置し、多くの人々を殺したし、我々アメリカ人は多くの非戦闘員の上に原子爆弾を落としている」と述べている(セア・ビビンズ『アメリカの一水兵の沖縄戦日記』)。
また本部の仲宗根で日本軍の慰安所を経営していた人が区長に相談し、海兵隊の許可を得て「S屋」という慰安所を開設した。女性は5、6人でアメリカ兵が行列をつくっていたという(宮里真厚『少国民のたたかい 乙羽岳燃ゆ』105-107頁)。
ただ第6海兵師団が中部戦線に転用され、代わりに陸軍第27歩兵師団が来ると、軍の方針に反するこういう施設はすぐに閉鎖された(ジョージ・ファイファー『天王山』上・387頁、米軍の性売買への政策は、林博史『日本軍「慰安婦」問題の核心』第Ⅳ部参照)。
北部では海岸付近は早くから米軍の支配下に入り、民間人の収容地区が設けられて、ある種の「戦後」が始まっていたが、他方では6、7月になっても山中で飢えに苦しみながらも逃げ惑う人たちも少なくなく、また遊撃隊や日本軍の敗残兵らが山中に潜んで、海岸地区の住民を殺害したり食糧を強奪するなどの「戦争」も長く続いていた。
北部の沖縄戦は中南部とは違った性格の住民を巻き込んだ地上戦だった。
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