第32軍の編成と前線基地沖縄

まず、配備当初、司令部には、参謀部や情報部、事務職員など340人余が配置され、司令部は旧真和志村(現在の那覇市)松川の公共建物に落ち着いた。

その他の司令部付き部隊は、沖縄県立第一高等女学校の敷地を借りるなどして、司令部と同じく最後まで独自の営舎・施設は持たなかった。

第32軍創設時の軍の任務は、航空基地の建設と敵の奇襲攻撃に備えるため港湾を建設し、そこを防衛することであった。飛行場建設のため、県下から労務者と呼ばれる住民が駆り集められた。

労働力として中等学校生や女学生、さらには婦人会までもが動員された。作業はスコップやツルハシ、モッコなどの木工、運搬具を用い、人海戦術で進められた。

だが、炎天下の飛行場建設が進むさ中の1944年7月7日、日本が守るべき「絶対国防圏」の最前線にあたるサイパン島が陥落した。大本営は、サイパン島が米軍の支配下に入ったので新たに沖縄を日本国領土の最前線とすることを決め、沖縄防衛の強化に取り組むことにした。

首里城の要塞化はここに端を発している。

このため旧満州を警備していた関東軍傘下の師団や日本国内の予備役兵を合わせて6万人以上の兵員(第9師団、第24師団、第62師団など)が、沖縄に動員された。南西諸島は、またたく間に軍人であふれかえった。

沖縄派遣部隊の代表的師団が、満州牡丹江から派遣された関東軍傘下の第9師団(兵員約1万4000人)である。

第9師団は、一般兵士が輸送船で移動し、司令部要員のみ、7月10日から同12日にかけ空路沖縄に到着した。血気にはやる司令部要員は、飛行場に到着するや否や、「直ちに抜刀し『敵は何処か!!』と叫んだという。

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(中略)彼らはアメリカ軍がすでに沖縄に上陸したものと思い込んでいた(*1)のである。